2012/12/27

美魔女


鬱陶しいから早く去れ、
と思っていた美魔女ブームがなかなか消えないので折角だから書いちゃおうかな。


「美魔女」がキライ、という言葉を最近たまに聞く。

それが主に男の人の口から出てきたりするから、おもしろい。

「あんなに若作りしたってさ、どうせ若いのなら本当に若い女にいくね、俺なら。」

というのが、彼らの言い分らしい。
彼らっつったって、まあ私の周りの3人だけだけど。

たしかに美魔女コンテストって言ったって審査基準が円熟した女の渋みとかではなく
単に「若くみえるコンテスト」って感じだしね・・。
なにも40代になってまでそんなに若さを全面に出して頑張らなくても。
大体、若さ、を売りにしてる時点で若者に負けてるじゃん。
いや、別に勝ち負けの問題じゃないけどさ。

一体、彼女たちは何を目指しているんだろうね?
余計なお世話だけどさ・・。

「キレイでいるのは旦那のため、とか言ってるけど、結局は周りや世間から「◯◯ちゃんのおかあさんはお若いですね〜」とか「とても◯歳には見えませんね」とか言われたいだけでしょ。」

ああ、あと「男にキレイって言われたい!」とか?
それならなんか健全な感じがしなくもないけれど。
だったら美魔女の旦那さんは結構、幸せかもね?
奥さんがキレイだったらセックスもやる気になるだろうし。



「え?セックスなんかしてるわけないじゃん。
 旦那がちゃんとかまってやってたら、女はあんなに頑張らないよ。
 ウチでかまってもらえないから、その分、外で認めてもらいたいんでしょ。」


・・・!!

そうか。

・・・そうかもね。

・・・いや 知らないけどさ。

たしかに、奥さんにあれだけやらせてあげられるってことは
旦那も経済力がある男だろうし、
そんな男なら他に彼女のひとりくらいはいるかもしれないしね・・・。

そうか。美魔女のキレイさを欲求不満の産物と考えると、
なんか納得できるから不思議である。

重ね重ね、余計なお世話だが・・・。

「基本的にね、美魔女と熟女は違うんだよ。
 熟女は歳を取っても女として見られ続けている女だからね。
 目指すなら、美魔女じゃなくて、熟女を目指さないと。」

た、たしかに・・・


「美魔女じゃなくて、熟女になれ」(友人、三神談。)


たしかに、美魔女に賛同してるのは男ではなく主に女のような感じもしなくない。

あ! わかった!

美魔女ブームって、美容業界が仕掛けた陰謀でしょ?
外見の若さが衰え始めた30代から40代の女の焦燥感と一時の不安感をターゲットに、
まーたそこから金を絞り取ろうという・・・。

若さはお金じゃ買えないから、価値があるんだと思うんだけどね。

まあ、たとえ外見だけの話だとしてもキレイじゃないよりはキレイな方がいいけどさ。

でも結局「キレイ」だなんだって言ったって、
その人間の精神性が外見に浮き彫りになるわけだから、
若さを失い始めた頃からは
その女が何をもって美しいとしてるか、その精神性が、
その女の顔や身体を作っていくと思うんだけどね。

そして何をもって美しいとするか、その精神は人によって違うから、
目指すところも人によって違うと思うんだよ。
なにもちまちま肌の手入れしたり、見栄えのする筋肉つけるためにヨガするばかりが、
美しさってことじゃないだろう。

「美魔女」なんていうチープな言葉でくくられることが馬鹿馬鹿しくなるほどに

美しさっていうのは、もっと多様でダイナミックで
自由なもんだと思うんだけどな。






2012/12/23


友人たちに会いに京都に行ってきました。
半日、一人の時間があったので今まで行った事のなかった伏見稲荷へ。

以前から鳥居が並ぶ様を
「なんだか不気味で怖そうなところだなあ」と思ってはいたのですが



・・・別に、怖くはなかった。
しかしなんだか異空間的な・・・。



なんだかジェームズタレルの作品みたいだなあと思って
「伏見稲荷の風景が現代アートっぽい。」と翌日、深い意味は無く友人に話したら、
「現代アートってさ、他人のオナニーを見てるような気分になってあんまり好きじゃないんだよね。」
とその友人は言っていた。
相変わらず、おもしろいヤツである。
ああ、そうなんですか、気持ちいいんですか、よかったね・・・みたいな感じかね?


この鳥居がどこまで続くかもわからず
ひたすら登り続けていたのだが、さすがに小一時間昇登り続けたら革靴を履いた足が痛くなってきた。
視界が開けたところにたどりついた時に、まあ、もういいかなと思ったので
そこで引き返すことにした。



冬の京都は寒かったけど
陽がでるとぽかぽかして散策する分には気持ちがよかったよ。

お寺や神社には興味が無いけれど、
京都はちょっとした山や自然が満喫できるから気持ちがいいね。





2012/12/16

言葉


「僕のこと、愛してる?」


・・・・。


ウソでもいいから愛してるって言えばその場はまるく収まるのだけれど
私は自分の気持ちにしっくりこない言葉は口から出せないので
昔から男とのこういうやり取りはとても困る。

私は「言葉」というものをとても大事にしているので
自分の気持ちと、それにきっちりはまる言葉をいつも自分の中で探している。
「愛してる」じゃなくて「ヤリたい」とか「すごく好き」とか
「好きだけど嫌い」のほうがしっくりくるんだけどな。
だけど私にとって最高級の愛情表現の「ヤリたい」って言葉を使うと、大体の男は引くしね。
「俺の身体が目当てなの?」なんて言われちゃったりして、
本当に言葉のやり取りって難しいとおもうよ。

私は自分に違和感のある言葉は使いたく無いので
大体の場合、男に愛してるとは言えないんだよな。

「ほら、御主人様、って言ってみろ。」

と、この間SMのプレイの中で言われたけども
私の辞書の中に男に対するそんな語彙はないもんだから
やっぱりそれも言えないんだよね。

だってさ、そんな言葉、普段は使わないじゃん、
そんな言葉はしっくりこないと私を調教中の加賀さんに悪態ついたら
彼はこんなふうに言っていた。

「SMは言ってみれば空想の世界なんだから、それでいいんだ。
 今はしっくりこなくても、言ってるうちにしっくりくるようになるんだよ。」

御主人様、と繰り返し言葉にしていれば、
そのうち相手の男を自分を支配する主人だと自然に思うようになる。
愛してる、と例えウソでも繰り返していれば、
その言葉が身体に染み付いて、愛のようなものを形づくるのかもしれない。

言葉は人を支配する。

私は、それが好きじゃない。

他人の言葉に支配されるのが、イヤなんだよな。

私は自分の心が選んだ言葉で自分を満たしていたいのに。

言葉は自分が作り、紡ぎ出すようでいて、
実は自分が言葉に支配されていたりもする。

人は言葉に何かを託し、放ち、そして自らがまたそれを受け取る。

例えば、住んでいる土地を一時的に離れどこかを訪れることを
ある人は精神性を込めて「旅」と表現し、
ある人は出発から帰着までの行程として「旅行」と表現するように
多分ひとそれぞれに、なんとなくではあっても
大事にしている言葉の使い方のようなものがあるんじゃないのかな。

その大事にしているものは、
多分日常に自分が使う言葉に託されて、そして自分に戻ってくる。

戻ってきたときにそのまま抱きしめられるような言葉を、
ちゃんと私は使えているだろうか?

私の中にある男に対する強い愛情を、
私はずっと「すごく好きだけど、すごく嫌い」という言葉に置き換えてきた。
使い回された「愛してる」という既存の言葉では
自分の思いがどれだけ正確に託せているのか、わからなかったから。

最近はその言葉の意味をそのままに、
そんな「愛している」という言葉に換えてもいいような、
そんな気持ちになってきている。

自分のものでは無かった言葉に、自分が近づいてきたってことなのかもしれない。

自分が変わると、言葉も変わる。

そしてその言葉が滋養になって、自分が形づくられる。

自分を支配する言葉は、自分が決める。

だからウソは、言えないんだよね。






2012/10/17

愛の証


最近はレーザーとかワックスとかいろいろあるみたいですね。

脱毛の話ですけど。

実は私、あまり脱毛にはそれほどの興味はなくて。
というのも勿論自分で脱毛はしてるんですけど、
サロンやクリニックにお世話になろうとするほど自分の無駄毛について
どうにかしようと感じた事があまり無いんですよね。

「私の男友達に毛深い女の人が好きっていう男がいるんだけど、
 その人は脇とか下の毛とかが多い女性に興奮するっていうんだよね。
 もし永久脱毛なんてしちゃったらさ、
 例えばそういう男の人と出会った時に、
 あ〜〜!永久脱毛なんてしなきゃよかった!なんて後悔するかもしれないじゃん。」

半分冗談、半分本気で私もそんなことを言っていたんですけどね。

まさか自分が脱毛しない状況になるとは正直思っていなかったですよ。

今年の初め、最近よく遊びに行かせていただいているSMサロンで
主催者で緊縛師の加賀さんに言われたんです。

「ナツコ、おまえ、脇は永久脱毛してないんだろ?
 だったら脇毛はやせばいいじゃないか。俺は女の脇毛が好きなんだよ。」



・・・!!


そんなことをいう男の人はいるだろうなあと思ってはいたものの、
実際にいままで出会った事がなかったのでちょっとした衝撃でした。

大体さ、なんで下の毛はそのままでも良いのに、脇の毛はあっちゃダメなの?
実は昔から不思議だったんだよね。
多分日本においては、昔から下の毛はエロティックなものとして捉えられているわけでしょ。
脇の毛も服を着た時の見栄えとかそういうのを抜きで考えたら、
結構エロティックじゃないかと思うんですけど。

「昔は日本では女だって普通にみんな脇毛を生やしてたんだよ。
 今みたいに脇の毛は手入れするもの、みたいな風潮が定着したのはいつだったか、
 アメリカが日本を市場に脱毛製品を売り出し始めた時からだよな。
 宣伝媒体としての女性誌でも「脇毛はお手入れするもの」みたいなことを言って、
 商品を売るためにそういう風潮を作り出したんだよ。
 それまではみんな普通に脇毛はやしてたのに。」

憎々しげに脇毛好きの加賀さんは言います。

別に私はそこまで脇毛に対して思い入れはないですけど
昔付き合った男の人の中に「女の人の剃った脇毛が少し生えてきてチクチクしているのをみると興奮する。」という人がいて、そんなちょっと変わった彼の趣味に妙に「そんなもんだよなあ」と納得したことがあったんですよね。

いくら人形のような洗練されたツルツルの綺麗さを求めたって、
どんなに高尚に愛について考えたって、
所詮はこういうおバカなものに興奮しちゃうんだよ、人間っていうのは。

まあ そんなかんじで今年始めから肩周りを露出し始める夏先まで
密かに育ててはみたんですけどね。
なにせここ十五年余り剃毛脱毛で虐げられ続けた私の脇の下ですから
なかなか思うように生き生きと繁茂してはくれませんでした。
まあ約3ヶ月かけてそれなりにこんなもんかな、って程度にはなったんですけどね。
生やすなら生やすで、これが私のポリシーですって主張できるくらいにはなって欲しかったなあ。

ちなみに一緒にこの話をしていたSMの友、ゆうきちゃんいわく。

「私の彼は無毛派だから、上も下も全部脱毛してるよ。」

「なにで?レーザーとか??それとも自分で??」

「最近は、脱毛サロンでブラジリアンワックス。」

へえ〜〜。

最近よく聞くなあ、ブラジリアンワックス。

てゆーか、サロンでアンダーヘアの脱毛なんて私、恥ずかしくて絶対できないよ!
よく同性の女相手に脚広げてそんな部分を見られて恥ずかしく無いよね?

「ええ!? てゆーか男に見られる方がイヤじゃん!
 だったら、なっちゃんは男に下の毛の脱毛される方がいいわけ?」

うん。

「だって私、今までアンダーヘアを抜いたり剃ったり整えたり、
 よく彼氏にやってもらってたし。」

意外と「やって」っていうと男の人って喜んでやってくれるよ。
やってもらってる時の尽くされてる感もなんかいいんだよねえ。

女の身体を愛でるなら、そこまで愛して貰ってなんぼだと思うんですけど。

愛の証、ですよね?







2012/09/27

綺麗な人

Istanbul

「基本的に、女友達はいらないんだよね。」

六本木のイタリアンバーに友人の寧々ちゃんに誘われ
食事をしていた時の事。

いきなり私を呼び出しておきながら「女友達はいらない」とのたまうのは
最近、SM系の店で仲良くなった美女、寧々ちゃん。
この寧々ちゃんは37歳といえど本当に綺麗な女で
なんというかとても、色気がある。
肌は真っ白で眼は黒くて大きくて体つきはとても華奢で
一見少女のような可憐さがあるのだけれど
日常的にSMのセックスにどっぷり浸かっているせいか
柔らかそうな肌の毛穴ひとつひとつから色の匂いがするような
いつも湿度のある色気が彼女を包んでいる。

「ああ、わかります。昔は私もそう思ってたから。」

基本的に、男好きの女というのは女友達はいらないと思うんだと思う。
私も二十代の半ばくらいまではそう思っていた。
男との関係に関しては意味も喜びも見返りも見いだせるのだけれど
女友達というものの必要性はよくわからなかった。

「だけどさ、最近やっぱり女友達も大事かなと思い直してさ。
 やっぱりこの先男だけじゃ、やっていけないよなあとか思って。」

・・・そうかなあ。

「寧々ちゃんくらい綺麗だったら
 これから先もいくらでも面倒見てくれる男が現れると思うんだけど。」

向かい合って座る寧々ちゃんと私の間にはすでに数皿の料理が並ぶ。
頼んだもののお互いあまり手をつけていない。
私は余程気心のしれた相手との会食でないかぎり
相手との会話に極端に神経を使うので食事まで気がまわらない。
一方、寧々ちゃんはもともと小食で、食べるという事にあまり興味がないらしい。
「作るくらいなら、食べない。」というくらいだから料理も勿論しないだろうし
そのせいかはわからないけど体つきも肉が無くとても細い。
大体、性欲が本当に強い女って他の欲求は薄い気がするんだよな。

寧々ちゃんの着ている黒いワンピースから覗く細い肩を見ていると
痩せた女というのは本当に綺麗だなあと思う。
勿論顔つきや身体が綺麗だからこそなんだけど
痩せた女の顎や肩はなんだか残酷で可哀想で儚げで、色っぽい。

牡蠣のソテーを箸で取り分けながら寧々ちゃんが言う。

「いや、無理だよ。私ももうすぐ40歳になるし。
 今はまだ男も寄ってくるけど、歳とったらさすがにどうなるかわかんないよ。
 だから生活のこととか考えると
 やっぱり手に職つけとかないとなあとか思うんだけど。」

寧々ちゃんは今、歳が一回り上の男の愛人をやっている。
お互いSMにどっぷり浸かっていて
端から見てるとこれ以上無いくらいお似合いの美男美女のカップルに見える。
多分、彼に生活の面倒もいくらか見てもらっていると思うけど、だからこそ、
やっぱり別れた時の事を考えると色々愛人というのは不安だろうな。

長年家庭とは別に愛人を持ち続けている60代の男友達によると
愛人というのはとにかく若いうちに金持ちの男を捕まえて
付き合っているうちにどれだけその男から金を引き出せるかが、勝負だという。

愛人というのはなんの保証も保険も無い。
だから、相手が自分に貢いでくれているうちに
十万でも百万でも、できるだけ男から引き出して貯めとかなきゃなんないんだと。
愛人を生業でやるっていうのはそういうことだと、その男は言っていた。

意外と愛人っていうのも、切実だよなあ。

今の時代、ただの不倫相手というものではなく
経済的な支援を含めた愛人というものを生業にして生きている女って
一体どれくらいいるんだろう。
なんでか私はそういう愛人家業を営む女の人たちこそ
とても「女らしい」と感じることがある。

好きになった男と結婚して家庭に入って子供を産む女たちには
絶対に無い色気があるんだよな。

それは男から見た女としての自分、を見つめ続けて生きているからなのかな。
しかも生活がかかってる分、ある意味命がけだしね。

その日寧々ちゃんが私を誘ったのは
どうやら週末家族のもとに帰る彼の、不在の寂しさを埋めるためであったらしい。

普段は絶対にそういう事は言わない寧々ちゃんだけど
以前、週末に彼が家に帰ることがとても嫌だ、と漏らしていた。

「寧々ちゃんはまた結婚したいとは思わないの?それこそ子供が欲しいとか。」

寧々ちゃんは特に美味しいとも不味いとも言わず
目の前にある料理を眈々と食べる。
特に食べる事に対して興味がないみたいに、ただ食べる。
以前、寧々ちゃんの彼が「こいつは一人になると飯を食わなくなるからそれが心配だ。」
と言っていたのを思い出した。
ああそうか、だから、今日は私を呼び出したのか。

「結婚はもう一回してるし、別にどっちでもいいかな。
 でも私は男がいないと生きて行けないから、一緒に生きて行く人は欲しいよね。
 子供は、いらない。もともと子供、好きじゃないし。」

寧々ちゃんは二杯目のワインを頼もうとして眼で店員を捜した。
週末の店は大勢の人で混んでいたけど、店員は不自然なくらいすぐに、来た。

「へえ。私ももともとあんまり子供は好きじゃなかったけど
 最近友達の子供とかはかわいいなあとか思うね。
 自分の子供は、欲しいかって言われるとどっちでもいいけどさ。」

「う〜ん。そうかなあ。だって子供ってさ、
 可愛い顔してる子は可愛いと思うけど、
 そうじゃない子はムリ、とか思っちゃうんだよね・・・。
 こんなこというのも、アレだけどさ。」

・・・わかる。

私は寧々ちゃんの、そういうところが大好きだ。

こういう女というのは
結婚して子供を産むことを幸せとする多くの女たちとは求めるものも違うし
今、その眼で見ているものも違う。

自分に正直な寧々ちゃんは、純粋すぎてとても危うい。
それが堪らなく彼女を色っぽく見せるのだと思う。

こういう純粋さが、そのまま幸福へと、結びついていけばいいのに。

なぜだか無性に、そう思う。








2012/09/14

友達

Santorini in Greece

例えば彼氏に「会いたい」と言われるとちょっとめんどくさいな〜とか
思っちゃうのに、友だちに「なっちゃんに会いたい」と言われると
その日にでも会いに行きたいくらい
嬉しくなっちゃうのって、一体なんなんでしょうかね?

勿論そんなの、私だけかもしれないですけど。

私にとって友だちっていうのは

何かを与えるでも与えられるでもなく、
お互い、求めている間だけ寄り添える、
この世で最も純粋な人間関係のようなもの。

恋人同士のように約束事に頼る事も無く
お互いが楽しみあえる、お互いがなにかを分かち合える、
その一点においてのみ一緒にいる事が叶う人間関係。

逆に言えば、必要でない時は何の罪悪感も無くお互いが離れていられる、
そんなウソの無い純粋な関係。

どちらか片方でもそれを望まなかったとすれば成立しない関係ですよね。

よく「親友」と「友だち」を分けて考える人もいますが
私はいわゆる親友であっても
時によっては友だちのような気安い関係になることもできるし
いわゆる友だちであっても、時によって親友のような親密な時間を持てると
そういう風に思っています。

たとえば恋人関係とかだと
どうしても与えたり与えられたり、そういう関係になってきますよね。
だから深いし、その分何かを負うし、別れるときは別れなきゃいけない。
精神的な約束事に縛られることもあるし
不本意でも何かを受け入れないといけない時もある。
だから時に無理もするし、悪意の無いウソも出てくるし、
会いたく無い時にでも会わなきゃいけなくなったりする。

勿論友だち同士の間でも多かれ少なかれそういうことはあるけれど
それが状況的に強制されるような感じにはならないですしね。

友だちとは、そのとき離れる事はあっても永遠に別れる事は無いと、
そう思っています。

会いたい時に「会いたい」と言えて

会いたく無い時には離れていられる関係。

無責任さの中の、自由と真実。

頑張って繋ごうとしなくても、求め合ってるから、繋がれる。

そこらへんが、嬉しいのかな。






2012/09/05

花を摘むように

Bali

なんていうかさ、花を摘むように、生きて行けばいいと思うのよ。」

先日、お客様とのなんて事無い会話の中でこんな言葉がでてきました。

「花を摘もうと思って歩いていたらさ、
 汚い花とか汚れた花になんか、眼もとまらないじゃない。
 綺麗な花を、探して見つけながら、歩くわけでしょ。
 人って、もともと綺麗なものを探しながら、歩いてるもんだと思うのよ。」

メヘンディを描きながら、
ああ、なんていいこと言う人なんだろうなあと
密かに胸を打たれる思いでした。

「花を摘むように」という
ささやかなれど楽しい感じが、なんかいいですよね。

私も、綺麗なものと楽しい出来事とイイ男を常に探しながら歩いています。

それが自分を癒し生かしてくれると、信じているから。






2012/08/21

言霊


「彼ってね、普段の生活の中でよく『幸せだなあ』っていうんだよね。
 たとえば忙しい仕事の合間にちょっと時間ができてお茶を飲めた時とか、
 美味しいゴハンを食べた時とか、
 『幸せだなあ』って感じた時には、そう言うようにしてるんだって。
 言霊の力っていうのを、信じている人だから。」


そんな話を、友人の三奈ちゃんが不意に始めました。

あれですよね?

言霊って、日本において言葉には力が宿るとされていた、あれのことですよね。
発した言葉が森羅万象に影響を与えるという。
簡単に言えば良い言葉を発すれば良いことが起こるという、そのことですよね。

自分に心地よく響く良い言葉で自分を満たす事で
自分の生活や運や人生を良い方に向けて行こうという。

すっごく簡単にいえば「自分の気持ちを上げる言葉」のことですよね。

そういう自分の気持ちを上げる言葉って、たしかにありますよね。
言うことで自分が更にその良い気持ちを自覚できて、満たされて、
前向きな気分になれる言葉。
でも私は『幸せ』って言葉だと、しっくりこないかも。
そういうしっくりくる言葉って多分人によって違いますよね。

「ああ、そうかもね。じゃあ、なっちゃんは、なんて言葉だとしっくりくるの?」

三奈ちゃんの部屋で
三奈ちゃんはパソコンに向かって彼氏とチャット中。
てゆーかよく彼氏とチャットしながら私と喋れるよね?
女は同時進行でいくつかの作業ができるというけれど、それって本当だなあと思う。

「えーと私はね、『楽しいな〜〜!』っていうと、気分が上がるよ。」

と 私が言うと
三奈ちゃんは一度パソコンから視線をはずしてちょっと考えるようにして

「それなら私は『嬉しいなあ』だね。」

と言ってまた彼氏とのチャットに戻っていきました。

どーでもいいことかもしれないけど

「しあわせ」も「たのしい」も「うれしい」も
どれも幸福感を表す言葉ではあるけれど
人によってしっくりくる言葉が違うってなんか面白くないですか。

私の勝手な想像だけど
「しあわせ」と言った三奈ちゃんの彼氏は
いつもずっとそこにあるようなもの、を求める人なんじゃないのかな。
継続する幸福、ささやかでも普遍的な幸福。
新しい何かを求めるというよりは、現状に対する満足感。
湧いては消え去ってしまう刹那的な高揚感ではなくて
すでに在るものに、気付くことの幸福のようなもの。

それに比べて「楽しい」を求める私は刹那的だなあ。
「楽しい」っていうのは軽い刺激みたいなものだからね。
しかも、「楽」って言うくらいだから軽いしね。
その場の状況に対しての高揚感みたいなものだから
必ずしもその楽しさに至るプロセスが必要じゃない感じもするし。
今日が楽しければ、明日も楽しい。
原因や結果やプロセスとは無関係な幸福感っていうのも、あっていいと思うんだよね。

で、ここで思ったのが
「楽しい」と「嬉しい」の違いってなんだろう?ってこと。

三奈ちゃんは、しっくりくる言葉は「楽しい」ではなく「嬉しい」だと言う。
言葉で明確に説明できなくても、しっくりくるこないという感覚で
その二つは別物と認識している訳だから
多分 一見似た意味に感じるこの言葉にも、明確な意味の違いがあるんでしょう。

なんていうか

「うれしい」っていうのは、自分が何かを得たような
そんなニュアンスがある気がしませんか。

自分が何かを求めたというプロセスと
それを得られたという結果に対する喜びのようなもの。

だって
「誕生日のプレゼントを貰って嬉しい」とは言うけれど
「誕生日のプレゼントを貰って楽しい」とは言いませんよね。

相手や物事に対する関係性のようなものも感じるんです。
「たのしい」のように降って湧いた状況としてのものではなくて
もうすこし人の息づかいと、相手や物事とのやりとりが産む幸福感のような。


まあ、わかんないですけどね。


ちなみにこの「自分を上げる言葉」の話を
御歳78歳の友人、三神おじいちゃんにしてみたところ

「オレの場合は『おもしろい』かな。」

と のたまいました。


うーん。


「おもしろい」かあ・・・



程度の違いはあれど、自分のキャパシティを超えた刺激を受けた時の
軽い驚きのようなものを生涯追い求めているのでしょうかね?
生き方としては結構ハイリスクだと思うんですけど。

三神さん、だから、年甲斐もなくって言われちゃうんですよ。

だから、結局、おもしろい人なんですけどね。










2012/08/14

嫉妬

海月 

「ナツコさんでも、ヤキモチ妬くんだね。意外です。」

と、昔 友人に言われたことがあります。

基本的に人並みにヤキモチは妬くんですが、それをあまり表面化させないから
一見ヤキモチなんか妬かないドライな人間に見えるんでしょう。

そんなことないんですけどね。

ヤキモチに代表される「嫉妬」の感情というものは
どうにもこうにも扱いが難しいと感じるのは私だけでしょうか。

扱いが難しすぎて、長い事、封印してしまっていた感情でした。

悲しみや精神的な辛さのように味わい尽くすことに意味があるような感情にも感じず
その感情を認めて自分の中に受け入れれば受け入れるほど
湧いて来るのは屈折した過剰な自己愛と何の解決にもなり得ない甘えの気持ちだけ。
嫉妬というのは相手に対する愛情ではなく
自己否定する強さすら持てない、自分の醜さを認めて欲しいという
脆弱な自分への愛情の感情のことでしょう、と思ってきたんです。

「嫉妬」の感情というものは一度自分でそれを受け入れてしまうと
泡が膨れ上がるみたいに増殖して、自分自身がその感情に蝕まれていく気がする。
自分の弱さや劣っている部分を自分自身で愛するでもなく
ただ他人に愛されたいと熱望する非常にうっとうしい感情だと。

味わったり乗り越えることにすら値しない、泥沼みたいな、感情。
自分の泥沼に、相手を引きずり込むような感覚ですかね。
自分で泥沼から出ようともがくのでもなく、相手を引っ張り込む感じ。

まあ、人間だから、そんな汚い感情でも
感情が湧いて来るのは仕方が無い
ただ、その感情が自分の中に存在するのは認めるけれど
その感情を受け入れてはいけない
できるかぎり自分の世界を歪めるようなそういう感情とは無関係でいよう、と。

心に強く、決めていたんですけどねえ。

心に強く刻み込まれたことほど
自分自身にとっては無視できない、重要な事柄なんでしょうね。

不思議なもので
自分が見る美しい世界を歪めたく無いがゆえに封印したこの感情を拒否して生きていくと

不思議なことなんですが
自分のあたりまえな素直な感情というものが、わからなくなってきたりする。

悲しい事を、悲しいと感じて泣く。
好きなひとの愛情を求める。

そういう、疲れたから眠るというようなあたりまえの感覚が
封印した感情と一緒に麻痺してくる。

そこから生きる力を得るような大事な感覚を
最近、長年封印していた嫉妬の感情とともに、思い出した気がしました。

無駄な感情なんて、もしかしたら無いのかもね。

厄介だけどね。

でも 多分、こういう感情というのは
乗り越えようと頑張らなくてもいい感情なのかもしれないね。

今でもこの感情が嫌いというのは変わらないけど

乗り越えなくとも、少しくらいは自分の中に受け入れてもいいのかもしれない。

愚かな感情は愚かな感情のままに、
抱えて生きていく強さがもし自分に持てるのならば。







2012/07/29

交尾

落日 by natsukomaeda 2001





「動物の交尾映像を見るのが好きなんです。」と 人に言うと
大概、理解できない、という顔をされるか笑われるかのどっちかなんですが

とある小説を読んでいたら
そんな動物の交尾好きの私の胸をつらぬく一節がありました。


『サバンナでのライオンの交尾や、壮大な儀式のように腹を寄せ合う鯨の交尾、
犬たちが忙しなく行う交尾、映像や写真でそういうものを見る時、
春はとても幸せそうな顔をする。

「彼らはセックスの時に言い訳をしたり、勘違いをしていない。
人間は賢いからさ、セックスの最中にも自己欺瞞や勘違いばっかりだ。」

「勘違い?」

「相手を支配しているだとか、辱めているだとか、道徳的であるだとか、
道徳的でないだとか、余計な事をぐちゃぐちゃ考えるんだ。
宗教や神にまで結びつける奴もいる。
性的な場面を描けば文学的だ、官能的だ、ともてはやす奴もいる。
セックスをしたところで、何も超越しないし、誰のことも支配できない。
人間の性は、動物よりも数段、馬鹿馬鹿しい。」』


この小説、買って読んだはいいけどすっごくつまらなくて、
だけど、折角だから暇つぶしにちょっとずつ読んでいたのですが
この一節に出会ってしみじみ、ああ、ここまで読んでよかったなあ、と思いました。


自分の欲望というものにしっとり浸かってみたいと思って
最近、エロの世界に今までより深く足を踏み込んで、
さらにSMとか縄とか特殊な性癖の必要な方面にも関わってみたりしていたのですが

なぜか、

そういう「特殊な性癖」というものに関わり出すと、
私は妙に息苦しい。

「性癖」という人間特有の精神性と戯れだすと、
私は解放されるどころか窮屈になって苦しくなる。

なんで、人間は動物のように、あっけらかんとセックスできないのだろうか?

なんで、セックスに「愛」という高尚で利己的な精神性が必要なんだろう?
「愛」にこだわりだすと、そこからがんじがらめになる気がする。
だって、「愛」という言葉自体がそもそも人間が作り出したもので、
人間が言葉で創作してきた世界というのは、
常に言葉で創作してしまったことによる矛盾と、
言葉で割り切れなかった、言葉では理解できないものが存在してしまうから。

人間はいつも、自分たちが作り出してきたもので、自分たちを苦しめる。

愛や、宗教や社会性や道徳や、ヒューマニズムで自分たちを縛りつける。

縛りつけられながら、苦しみながらそれと戯れる。

傲慢な言い方だけど、そういうものから自由になりたいと、
私はずっと思ってきた。

人間は、セックスをもとても複雑にする。

自己開発の手段にしたり、生きて行く糧にしたり、
トラウマの克服や自分の価値を認識する手段にしたりする。
愛の対価にしたり、されたりする。


とても、めんどくさい。


それに比べて動物っていうのは、なんて自由で気持ち良さそうなんだろうって思う。
私はそういうものが、とても、羨ましい。


だけど、せっかく人間に産まれたわけだから、


そんな複雑な自己欺瞞のセックスを味わうのも、
人間特有の醍醐味なのかもしれない。

わざわざ自分たちが作り出した矛盾の海に足を突っ込んで、
溺れながらそれを楽しんでいるような、
人間っていうのはそんなパワフルな存在なのかもしれない。


最近は、ちょっとだけ、そういうふうに思う。