2013/04/23

支配




「ただ俺を信じてついてくればいいんだよ。
 身体も心も全部俺に委ねて、信じてついてくればいいんだ。
 そういうやつしか、いらないんだよ。」

そう言ったのは、SMの緊縛師の加賀さんである。
加賀さんとは、一年前に出会った時から仲がいい。

今年60代も半ばに差し掛かった加賀さんは
かつてSM業界ではとても名の知れた人物だったらしく、
半分引退した今でも彼のもとには昔からの彼のファン、というか
信奉者のような人たちが男女問わず訪ねてくる。

加賀さんの主催するSMサロンに、私が始めて顔を出したのは去年の一月。
SM素人という加賀さんの好みに叶ったせいか
会ったその日に眼をつけられ、以来、
加賀さんの膝の上で猫のように可愛がられている。


勿論、例え猫でも、加賀さんに可愛がられると言うことは
M女として調教されるということである。
M女の心得としてか、以前こんなことを言われたことがあった。

「ただ俺を信じてついてくればいいんだよ。
 身体も心も全部俺に委ねて、信じてついてくればいいんだ。
 そういうやつしか、いらないんだよ。」

その時、私は営業後のサロンで半裸でソファに寝っころがりながら、
酒飲みの加賀さんの話を聞くとも無くきいていた。
酒飲みの話を深く追求するのもアレだなとは思いながらも、
なんだかその時は、きかずにはいられなかった。


「あのさ〜、信じてついてくればいいって加賀さんは簡単にいうけどさ、
 加賀さんがいう信じるっていうのは一体どういうことなわけ?
 加賀さんの意志や考えが絶対的に正しいものだと信じて、
 その通りにいうことをきいていればいいってこと?」

加賀さんは頷いた。

「そうだ、おまえは何も考えなくていいんだ。
 俺にただ全てを委ねていれば、気持ちよくなれるんだよ。」


「・・・だけどさ、もし、その通りにして、
 例えば私が何かで精神的に、大きく傷を負ったとするでしょう。
 この先の人生に大きく関わるような、手痛い傷を、負ったとする。
 だけど、その責任はあなたが取ってくれるわけでは勿論ないよね。
 他人の責任を取れる人間なんていないからね。
 私の責任は、自分で取るしかない。
 誰かに自分を委ねるというのは、判断や決定を相手に委ねながらも、
 責任は自分がとるということ。
 簡単なことではないのはわかるでしょう。
 それでも、あなたは、傲慢にも、そう言うの?」

理屈を詰めるように、話をするのは私の悪い癖である。
このブログでは結構いつも理屈を捏ねながら好きなことを好きなだけ書いているが、
普段はあまり相手に自分の意見を言ったり何かを主張したり、
それこそ相手を問いつめるようなことは実は好きではない。
だけど、なんだかこの時は、どうしても聞いてみたかったんだよな。
S男として今までに千何百人の女を相手にして来た男の、
その哲学のようなものを、すこしでも垣間みたかったのだ。

私はその時、なんとなくだが、
依存するように男に心を委ねた女がその後、
男になにを求め出すかが、なんとなく、わかってきていた。
それを求め出したら、自分が行き場の無い辛さを舐めるだろうことにも気付いていた。
男の欲望に身を委ねたら、余程の変態でない限り確実に女は傷つくのである。
SMやセックスは単に限られた時間の中の、そこだけで終わるものではない。
そこで手にした幸福も、快感も、そして傷もが、その人間の何かを変える。

それに気付けたのは間違いなく、私が今までに付き合った男たちのおかげであり、
そしてこの加賀さんの調教の賜物である。
私は生粋のM女ではない。
だが、私の中に生理として潜む女のM性を、
この数ヶ月の調教で加賀さんはしっかり引き出してくれていたことは否定できない。
たとえ一瞬に過ぎなくても、私は男に身を託したM女の気持ちを、
なんとなく感じることができたと思っているのだ。

それにもかかわらず、
私はそのまま加賀さんのイヌとなり、
SMの世界に今よりものめり込んでいくことに
なにか違和感を感じていた。

なにかが、釈然としないし、気に食わない。

・・・気に食わない。

私はずっと、自分が服従できるような強い男を探していた。
自分の強い自意識を捨てられるくらい、
圧倒的な力を女に対して行使できる男を探していた。
そういう男こそが、私にとって最も男らしい男であり、
ある意味私にとって理想の男であったのだ。

私にとって男らしい男とは、女にモテる男である。

女好きで、多くの女を自分のものにでき、セックスが強い男である。
例えどんなに美しくても、どんなに金持ちの男でも、どんなに心優しい男でも、
私は女にモテない男とセックスが下手な男には興味が持てない。
だけど言っとくけど、
「女にモテるけど、一穴主義」みたいな男のことを言ってるんじゃないよ。
女にモテて、なおかつ女が大好きな男が理想なの。
こういうと誤解を産みそうだが、一人の女しか愛せないような男は、
男ではないとすら思っている。
私はひたすら男らしい男が好きなのだ。
なぜだかわからないが、私は男が男の欲望のままに生きようとするとそういう男となり、
そしてそれを実現できる男は最高にかっこいいと、なぜだか昔から思い続けているのだ。
なぜだか、わからないんだけれども。

私が加賀さんのお膝の上の猫になる旨を承諾したのは、
そんな加賀さんが、私の思う理想の男に限りなく近いと感じていたからである。

だから私は、そんな加賀さんが大好きだ。

だけど、当たり前のことながら、
そんな男と一緒にいて、
最終的に女が幸せになれるかといったら
それこそ多頭飼い願望のある女でもなきゃ、無理だろうよ。

だから私は、この加賀さんが大好きだが、
いつもどこかが気に食わないと、そんな風に思い続けているのである。

好きだが気に食わない。

クソっ。

イヤな男だ。


しかしそんな私にはおかまい無しに、
お気に入りの胡麻焼酎の酔いが回ってきた加賀さんは、
脈絡無く言葉を紡ぎ続ける。

「大体の女はな、男を自分のものにしようとするから駄目なんだよ。
 今までのほとんどの女はそうやって俺を自分のものにしたがりだして、
 俺の他の女や家族に嫉妬して、自分より大事なものがあるのが辛い、許せない、
 と言って俺のもとから去って行くんだ。
 そんなふうに言い出すと、
 大体半年から一年で自分で耐えられなくなって去って行くんだ。
 俺は最初からなにも、変わってないのにな。」



自分好みに依存させておきながら、
しっかり自分の足で立てという。
私が本当に男らしいと思う男の身勝手さが、そこにある。

俺を信じろと、
判断や決断は俺にまかせろ、だけど責任は自分でとれと
そういうことをこの男は言いたいのだろうか。

だからこそ支配には意味があり、快感なんだと
そういうことを言いたいのだろうか。

そういうこの男の傲慢さにある人々は憧れ、
そしてきっとある人々は憎みもしたんだろう。

男の欲望は子供のように身勝手で、残酷だ。

そして、ひたすら無邪気で、傲慢である。

私は男の欲望のもとに、ひれ伏すことはできない。

32歳にしてやっとのこと理想の男に出会えたというのに、
私はそんな理想の男にすら自分を委ねられないのか・・・

なんだかちょっとだけ、残念である。

てゆーか、では一体どんな男なら良いというのだ、私よ・・・




・・・と、ここまで考えて思い至った。


ちょっと話が飛ぶが、

私はこの加賀さんのように、
傲慢にも誰よりも自分自身を信じている人間である。

そして、自分自身と同じように、自分の神様という存在を信じている。

この場合の神様というのは、
例えばクリスチャンやムスリムやその他の宗教をもつ方々が言う神様という存在と
ほぼ同じと考えてもらって差し支えない。
または、精神世界系の方々が言うような、
宇宙の根源的エネルギーとかそんなやつでも構わない。

日本で神様の話をするにはいちいちエクスキューズが必要で、めんどくさいな。
まあ、仕方ないけど。

もし神様の話がキライな人がいたら、ゴメンね。

まあ とりあえず、そんな感じの神様が、無宗教の私にもちゃんといるのである。

で、重要なのはここなんだが、私はその神様を自分という存在全てをもって信じている。

私は自分を信じて好きなように生きているが、
自分の望むことは神様も望んでいると考える。
そして、神様が望むことは自分も望んでいると考える。
私は神様の価値観に、絶対的な信頼を寄せているのだ。

神様がやれといったことは必ずやる。
それは自分にとって、必ず重要なことだからだ。

神様がやるなと言ったこともたまにやってしまったりするが
その時は大体うまくいかないので、納得して後でちょっとだけ反省する。

結局ある意味、私は神様のいいなりである。

そして、いいなりになることを楽しめるのは、
私が神様という存在に絶大な信頼をよせ、
文字通り身も心も委ねているからに他ならない。

きっと私は、神様が死ねと言ったら死ぬだろう。
その時が、自分の一番幸せな死に時だと信じているから。

そんな私の存在全てを委ねることのできる相手を、私は神様以外に知らない。


もし男の欲望というものが

そんな私にとっての神様のような存在になりたいという欲望であるとするならば

それはひたすら傲慢の一言に尽きる。

だけどそんな傲慢さに心底吐き気を覚えながらも、
自分と違うそんな男という生き物のことを、私は考えられずにいられないのだ。





・・・そうか。お前は、神様に、なりたかったのか・・・。





薄暗がりの中、蝋燭に照らされた加賀さんの顔に向かって、
心の中で呟いてみた。

仕事を終えて寝酒に耽る加賀さんは、
煙草の煙にまみれて、作務衣姿の脚をだらしなくを床に投げ出している。

睡眠薬の助けを借りて、そろそろ眠りにつくんだろう。

神様になりたがるこの男は、
自分の力だけでは眠ることもできない。



男の欲望は、泣きたくなるくらいに、愚かである。

きっと女の愛と、同じくらいに。












2013/04/10

イヌ


どーしても腑に落ちないことがあった。

お世話になっていたSMサロンでのことである。


そのSMサロンでは、Mの女の子が裸で縛られたり、
拘束された状態で男に触られたり何かを身体に突っ込まれたり、
時に鞭で打たれたりして弄ばれるのが常だった。

その行為が好きかキライかというのは勿論、個人の趣味の問題で、
しかもその場所は当然そういう行為が好きな人たちが集まる場所なわけだから
その行為自体が特に腑に落ちないわけではない。

私がどうにも腑に落ちなかったことというのは、
M女とS男がふたりっきりの状態でそういうプレイが行われるわけではなく、
数人の観客の前で行われるということである。
生粋のSM愛好者でない私にはどーしてもその情緒が理解できなかった。

なんというか、その場所にいる男たちが弄ばれてるM女を見て楽しむのは理解ができる。
私が不思議なのは、Mの女の子がその状況をどういう風に感じているのかということである。
勿論、他人に見られる方が興奮するっていう女の子は別である。
それはそれで女の子が自発的に楽しんでるわけだからね。
だけど、なんか、みんながみんなそういうわけじゃ無い感じがしたんだよね。
ホントはイヤだけど、パートナーの男がそれを望むからやる、みたいな。
勿論、Sの男にやれって命令されて従うことがM女としては楽しいわけで、
そこはそういうものを楽しむ場所だからそれはそれでいいんだけれども。

本当は他の男の前でそんなことするのはいやなんだけど、
御主人様のS男にそう命令されてそれに従う自分が好きだしそれが快感、
っていうのがM女の思考回路ではないかととりあえずは私も推測できる。
で、女を服従させて自分の思うようにコントロールして、
他の男たちにそれを披露することが、S男の快感なんだと思うのだけど。
だとは思うんだけど、私にはそれがイマイチ腹の底から納得できない。
たとえば私は服を脱ぐこと自体には抵抗が無い方なのでそういう場所で脱ぐのは別に構わないだけど、
さすがに好きでもない男たちに触られたり何かを突っ込まれたり
それこそ感じている自分を見られるなんて絶対にイヤなんだよね。
それって、やっぱりノーマルな女とM女の差なんだろうか。

私が思うに、この「絶対にイヤ」という感覚は、
女としては結構フツーの感覚であると感じている。
きっと、Mの女もノーマルな女もそんなに違いは無いと思う。
ただ、Mの女というのはそういうイヤなことを男に命令されてやる自分というのが好きだったりするので、
イヤだけど、快感、というのが実際のところなんだろう。
他の男に見られたり触られるのはイヤ、だけど、
自分がある意味で自己犠牲的に身を削って男に奉仕することで自分の男が喜ぶということが、
M女にとっては快感なのかもしれない。

とは言ってもこの快感、というのも、
結局は自分の唯一無二の御主人様の支配下に自分が置かれるということの快感であり、
決して複数の男に弄ばれること自体が快感ということでは無いと、私は思う。

勿論、中にはそういう特殊な性癖を持つ女性もいるわけだけど、
それはそれでまた別の話である。

私には、M女はS男に、
何やらとても旨そうな餌を目の前にチラつかせられているように見えた。

M女はその餌が欲しくて、S男の言うがままに観客の前で裸体を晒しているように見えた。

ちょうど、主人の手の中の餌欲しさに犬が芸をするみたいに。

犬が上手に芸をして観客を楽しませれば、
御主人様の株もあがる。

株が上がれば御主人様もご機嫌で、
犬もいっぱい褒めてもらえて、
きっといつもよりたくさんの餌がもらえるんだろう。


実は以前、そのサロンの主催者である緊縛師の加賀さんに観客の目前で
おもむろに縄でしばられいつもM女がされるように弄ばれそうになった。
加賀さんとはとても仲良しなのでふたりっきりの時なら別に何をされても構わないが、
私は生粋のM女でもなく、そんなことを他人のいる場所でされても嬉しくも楽しく無い。
やめてくれと言いたかったが、
主催者である加賀さんの顔をたててとりあえずは何も言わず、
無表情、無反応で決め込んだ。
無表情、無反応は男のその気を削ぐ一番の方法である。
結局、私の冷めた表情に気付いて、加賀さんも途中で縄を解いた。


「例えばな、ギターを練習して弾けるようになったとするだろ、
 そしたらきっと、誰かに聴いてもらいたいと思うだろう。それと一緒だよ。
 自分が手なずけて調教した女を、他のやつらに披露したいんだよ、
 どうだ、すごいだろってな。それと一緒だ。」

後でそう、加賀さんは言っていた。
きっと、それがSの男の欲なんだろう。
男の欲望は、結局は社会的だ。
男の欲望は、そこにいる一人の女に向いているわけじゃない。
女を通して社会の中の自分の立ち位置を妄想している。
きっと、支配欲っていうのはそういうものだ。

私にはそのSMサロンが、男が、男の欲望のために作り上げた世界のように見えた。
男の欲望の中の女が、必要とされている場所のように思えた。

男の欲望と女の欲望が、
もし同じ方向に向かっているとするならば、
各々の欲求を晒し合うそんな場所では皆が楽しく、幸せになれるのかもしれない。

もし女が求めるものと、男が欲望するものが
本当に、同じものであるとするならば。


SMの世界に足を突っ込んで一年以上になるが、
私はいまだに犬にはなれない。




そういえば、SMの世界ではよくM女を「犬」と形容している。
裸で首輪をつけて、四つん這いにさせて遊んでいる。
そんな犬プレイを散々見て来ているにも関わらず、
犬になる醍醐味がイマイチ理解できないこの私。



・・・犬か。


と 考えて思い至った。


他の動物じゃダメだろうか。


論点が少しずれるが、この私、犬でなければなんだろう。
理想としては気高い鷹とか鷲とか猛禽類をあげたいところだが
さしずめ、陸ガメとかペンギンとかせいぜいウサギくらいがいいとこだろう。
見ようによってはなかなか可愛くて、
だけども芸などは特に要求されないという、
そんな感じが私的にはちょうどいい。
餌をやったらついては来るが、褒めたところで芸はできない。
だけど、カワイイからとりあえず可愛がられて愛される。
フツーに自分を生きてるだけで、愛される。
ウチのリビングのソファを占拠する、愛すべきバカ犬みたいに。

いや、勿論それではSM趣向者のお眼鏡にはかなわないだろうが・・・。

多分、愛というのは、
求めることで貰えるようなものじゃない。

欲求を満たすためのものでもない。

だけど不思議なことに、SMの世界で男に犬として躾けられていくと、
徐々に何かの見返りのように男に愛を求め出す自分に気付く。
餌をくれと、愛を与えてと、口を開けて待つ自分を知る。

そんな餌を与えられたところで、更に喉が渇くと知りながら。

そんな自分に気付きながら、私はそんな愛ならいらないと思った。
そんな餌では、私はきっと満足できない。

男の欲望の形に応えられなくても、

私はただ、自分という人間を生きてるそれだけで、愛される。

S男がM女の前に餌のようにぶらさげる愛よりも、

私は、そんな形の愛が欲しい。

















2013/04/01

カナディアンロッキー



カナダから帰ってきて一週間もたつというのに
時差ぼけが抜けないんです・・・。
今日もまた午前二時に目が覚める始末。
まあ、昨日午後6時に寝た私も私ですが。




とりあえずはカナディアンロッキーの写真を。


とはいっても、山、やま、山・・・で



いや、もうひたすら山なんですよ。

あたりまえだけど。

雪化粧のカナディアンロッキーは晴天にも恵まれ、
非常に美しかった。

このデカさが伝わるだろうか。

呼吸で鼻の穴の入り口が凍るという体験を初めてしました。

マイナス14度の雪景色。