2012/08/21

言霊


「彼ってね、普段の生活の中でよく『幸せだなあ』っていうんだよね。
 たとえば忙しい仕事の合間にちょっと時間ができてお茶を飲めた時とか、
 美味しいゴハンを食べた時とか、
 『幸せだなあ』って感じた時には、そう言うようにしてるんだって。
 言霊の力っていうのを、信じている人だから。」


そんな話を、友人の三奈ちゃんが不意に始めました。

あれですよね?

言霊って、日本において言葉には力が宿るとされていた、あれのことですよね。
発した言葉が森羅万象に影響を与えるという。
簡単に言えば良い言葉を発すれば良いことが起こるという、そのことですよね。

自分に心地よく響く良い言葉で自分を満たす事で
自分の生活や運や人生を良い方に向けて行こうという。

すっごく簡単にいえば「自分の気持ちを上げる言葉」のことですよね。

そういう自分の気持ちを上げる言葉って、たしかにありますよね。
言うことで自分が更にその良い気持ちを自覚できて、満たされて、
前向きな気分になれる言葉。
でも私は『幸せ』って言葉だと、しっくりこないかも。
そういうしっくりくる言葉って多分人によって違いますよね。

「ああ、そうかもね。じゃあ、なっちゃんは、なんて言葉だとしっくりくるの?」

三奈ちゃんの部屋で
三奈ちゃんはパソコンに向かって彼氏とチャット中。
てゆーかよく彼氏とチャットしながら私と喋れるよね?
女は同時進行でいくつかの作業ができるというけれど、それって本当だなあと思う。

「えーと私はね、『楽しいな〜〜!』っていうと、気分が上がるよ。」

と 私が言うと
三奈ちゃんは一度パソコンから視線をはずしてちょっと考えるようにして

「それなら私は『嬉しいなあ』だね。」

と言ってまた彼氏とのチャットに戻っていきました。

どーでもいいことかもしれないけど

「しあわせ」も「たのしい」も「うれしい」も
どれも幸福感を表す言葉ではあるけれど
人によってしっくりくる言葉が違うってなんか面白くないですか。

私の勝手な想像だけど
「しあわせ」と言った三奈ちゃんの彼氏は
いつもずっとそこにあるようなもの、を求める人なんじゃないのかな。
継続する幸福、ささやかでも普遍的な幸福。
新しい何かを求めるというよりは、現状に対する満足感。
湧いては消え去ってしまう刹那的な高揚感ではなくて
すでに在るものに、気付くことの幸福のようなもの。

それに比べて「楽しい」を求める私は刹那的だなあ。
「楽しい」っていうのは軽い刺激みたいなものだからね。
しかも、「楽」って言うくらいだから軽いしね。
その場の状況に対しての高揚感みたいなものだから
必ずしもその楽しさに至るプロセスが必要じゃない感じもするし。
今日が楽しければ、明日も楽しい。
原因や結果やプロセスとは無関係な幸福感っていうのも、あっていいと思うんだよね。

で、ここで思ったのが
「楽しい」と「嬉しい」の違いってなんだろう?ってこと。

三奈ちゃんは、しっくりくる言葉は「楽しい」ではなく「嬉しい」だと言う。
言葉で明確に説明できなくても、しっくりくるこないという感覚で
その二つは別物と認識している訳だから
多分 一見似た意味に感じるこの言葉にも、明確な意味の違いがあるんでしょう。

なんていうか

「うれしい」っていうのは、自分が何かを得たような
そんなニュアンスがある気がしませんか。

自分が何かを求めたというプロセスと
それを得られたという結果に対する喜びのようなもの。

だって
「誕生日のプレゼントを貰って嬉しい」とは言うけれど
「誕生日のプレゼントを貰って楽しい」とは言いませんよね。

相手や物事に対する関係性のようなものも感じるんです。
「たのしい」のように降って湧いた状況としてのものではなくて
もうすこし人の息づかいと、相手や物事とのやりとりが産む幸福感のような。


まあ、わかんないですけどね。


ちなみにこの「自分を上げる言葉」の話を
御歳78歳の友人、三神おじいちゃんにしてみたところ

「オレの場合は『おもしろい』かな。」

と のたまいました。


うーん。


「おもしろい」かあ・・・



程度の違いはあれど、自分のキャパシティを超えた刺激を受けた時の
軽い驚きのようなものを生涯追い求めているのでしょうかね?
生き方としては結構ハイリスクだと思うんですけど。

三神さん、だから、年甲斐もなくって言われちゃうんですよ。

だから、結局、おもしろい人なんですけどね。










2012/08/14

嫉妬

海月 

「ナツコさんでも、ヤキモチ妬くんだね。意外です。」

と、昔 友人に言われたことがあります。

基本的に人並みにヤキモチは妬くんですが、それをあまり表面化させないから
一見ヤキモチなんか妬かないドライな人間に見えるんでしょう。

そんなことないんですけどね。

ヤキモチに代表される「嫉妬」の感情というものは
どうにもこうにも扱いが難しいと感じるのは私だけでしょうか。

扱いが難しすぎて、長い事、封印してしまっていた感情でした。

悲しみや精神的な辛さのように味わい尽くすことに意味があるような感情にも感じず
その感情を認めて自分の中に受け入れれば受け入れるほど
湧いて来るのは屈折した過剰な自己愛と何の解決にもなり得ない甘えの気持ちだけ。
嫉妬というのは相手に対する愛情ではなく
自己否定する強さすら持てない、自分の醜さを認めて欲しいという
脆弱な自分への愛情の感情のことでしょう、と思ってきたんです。

「嫉妬」の感情というものは一度自分でそれを受け入れてしまうと
泡が膨れ上がるみたいに増殖して、自分自身がその感情に蝕まれていく気がする。
自分の弱さや劣っている部分を自分自身で愛するでもなく
ただ他人に愛されたいと熱望する非常にうっとうしい感情だと。

味わったり乗り越えることにすら値しない、泥沼みたいな、感情。
自分の泥沼に、相手を引きずり込むような感覚ですかね。
自分で泥沼から出ようともがくのでもなく、相手を引っ張り込む感じ。

まあ、人間だから、そんな汚い感情でも
感情が湧いて来るのは仕方が無い
ただ、その感情が自分の中に存在するのは認めるけれど
その感情を受け入れてはいけない
できるかぎり自分の世界を歪めるようなそういう感情とは無関係でいよう、と。

心に強く、決めていたんですけどねえ。

心に強く刻み込まれたことほど
自分自身にとっては無視できない、重要な事柄なんでしょうね。

不思議なもので
自分が見る美しい世界を歪めたく無いがゆえに封印したこの感情を拒否して生きていくと

不思議なことなんですが
自分のあたりまえな素直な感情というものが、わからなくなってきたりする。

悲しい事を、悲しいと感じて泣く。
好きなひとの愛情を求める。

そういう、疲れたから眠るというようなあたりまえの感覚が
封印した感情と一緒に麻痺してくる。

そこから生きる力を得るような大事な感覚を
最近、長年封印していた嫉妬の感情とともに、思い出した気がしました。

無駄な感情なんて、もしかしたら無いのかもね。

厄介だけどね。

でも 多分、こういう感情というのは
乗り越えようと頑張らなくてもいい感情なのかもしれないね。

今でもこの感情が嫌いというのは変わらないけど

乗り越えなくとも、少しくらいは自分の中に受け入れてもいいのかもしれない。

愚かな感情は愚かな感情のままに、
抱えて生きていく強さがもし自分に持てるのならば。