私は無宗教だけど、たまに無性に宗教というものに入りたくなる時がある。
でも、入らないけどね。笑
いや、入りたく無いわけじゃないんだよ。
入りたいけどはいれないってゆーか
だって自分にしっくりくる既存の宗教に、出会ったことがないからね。
宗教に疎い日本人とはいえ産まれた時から寺だの神社だのに行くんだから
結局は仏教系だ神道系だなんだって世間では言ったりもするけれど
私は海外で外国人に自分の宗教を聞かれた時に、
仏教だの神道だのと自信と自覚を持っては言えないし、言ったことが無い。
そういう時に、自分は結局、無宗教なのだと思う。
宗教を持つ人たちを羨ましいと思うこともあるけれど、
既存の宗教に入りたいとは思わない。
私の友人たちの中には、熱心な仏教徒もいればクリスチャンもいる。
イスラム教やヒンズー教を信仰する人もいるし、
創価学会員もいればこの間は真如苑の信者と仲良くなった。
彼らの宗教観に関する話を聞くのはとても楽しい。
それぞれに信仰する、眼には見えない世界がある。
ある宗教には神様がいるし、ある宗教には神様がいない。
だけど、人間の力が及ばない、人間の力を超える世界を信仰しているという意味では、
どの宗教も共通しているように思う。
そういう意味でいえば、最近はもう珍しく無くなった精神世界やスピリチュアリズムも、
宗教と同じようなものかもしれない。
友人のひとりは、宗教を河のようなものだと言った。
「例えばさ、利根川とか荒川とかガンジス川とかミシシッピ川とか、宗教っていうのはそういう河みたいなもんだと思うんだよね。数ある河の中の、どの河を追っかけて行ったっていいんだ。どの河もみんな、海に繋がっているんだから。」
スピリチュアルな友人はこう言う。
「自分の中に神性を感じたことがある人は、自分以上に何かを信じるって、
なんか気持ち悪いんだと思います。」
なんか気持ち悪いんだと思います。」
クリスチャンの友人は、聖書を熱心にわかりやすく説明しながらこう言った。
「聖書に書いてあることは、全部本当にあったことなんだよ。」
トルコ人に信仰を問われた日本人の友人はこう答えていた。
「僕は神は信じていない。自分自身を、信じている。」
どれが正しいのか間違っているのか、私にはわからない。
だけど、
神様であれ自分であれ
自分を超える、自分を支配する
そんな眼には見えない大きな力を
きっとひとは憧れたり畏れたり
時に切実に求めたりするのかもしれないね。
私はきっとこれからもずっと無宗教なくせに
きっとこれからもたびたび宗教というものに惹かれていくような感じがする。
それはきっと、私がSMに興味を持った理由と大体同じ理由なんだろうな。笑
たとえば水の中で感じる、
心地のよい委ねの感覚みたいに
私は時々、
なにかがとても恋しくなるのかもしれないね。