2016/12/26

幸福



もう十年以上前に別れた男の、消息を知る機会があった。

 当時は独身だったその男も結婚して、子供も生まれて、いわゆる世間一般でいう幸せな家庭を築いているようで、私はそれを聞いたとき、なんというか心の底から一点の曇りもなく、「よかった」と思って嬉しくなった。


 余計なお世話かもしれないが、彼も、その奥さんも、今もこれからも幸せでいてほしいと思った。
 本当に余計なお世話かもしれないが、女に依存的に執着するあの男の浮気性が影を潜めているか、もしくは奥さんがそれを許容してくれていることを切に願った。
ていうかどちらにしても穏やかに不幸がなく暮らしてくれてるなら嬉しかった。


そんな風に、昔の男の幸せを喜んだ瞬間、当時死ぬほど好きだったその男に対する興味が、一切、自分の中から消えていることに気がついた。


 心の底から男の幸せを喜びながら、心の全部で「どーでもいい」と思っていた。



・・・そうか。
 私が好きな男の幸せを願えるのは、その男に興味がなくなった時なんだな。
と、なんだか漠然と思ってしまった。



*****

たまに、何人もM女を抱えるSMのS男や婚外恋愛を推奨する男がよく使う言葉に、「相手の幸せを喜ぶ」というようなものがある。
どちらも複数の女性と関係することを良しとする立場の男性が、自分と関係する女性が他の男と付き合いだしたり結婚したりした時に、反対したり嫉妬したりせずにその女性の門出を祝福してあげる、というようなニュアンスでそのような言葉を使う。
 

正直、私はその言葉の意味が、実感としてはさっぱりわからない。
 

実感としてはわからないが、もちろん男という生物の生理ということで考えれば、理解はできる。
複数の女性と関係することをオスの基本だとする男にしてみれば、いちいち関係した全ての女を独占したところで面倒なだけだし、その男たちが築こうとするある意味での秩序が成り立たなくなるし、関係するすべての女達の希望に応えられるわけではないから、そういう意味では女たちの幸せも奪いかねない。
だから、その「相手の幸せを喜ぶ」というスタンスは、そういう男たちの女と関わる上での策というか美徳のようなものではないかと想像する。


ていうか、実際私がこの言葉を聞いたのは主に男性からだけだったのだが、女性でも同じようなスタンスで男と関わる人っているんだろうか?
まあ勿論、世の中にはそんなお人もいるんだろうが、そんな女性がいるとしたら、私と彼女はもう同じ女とはいえ身体の組成からして違うような気がしてしまう。

それくらい、その言葉は私にとって意味を成さないもんなんだ。


勿論、私だって人の幸せは願う。
 

大事な友達や家族は近くにいてもいなくても、健やかに笑っていて欲しいと切に思う。
 周りが幸せでいてくれないと自分が幸せでいられないことは身に染みてわかっているので、できることなら自分に関わる全ての人に不幸が無いよう願っているし、特に二年前に生まれた甥っ子とその家族に関しては、自分を含め他の誰が不幸になってもいいからその子だけは絶対に幸せに生きてほしいとその2歳児の笑顔を見るたびにエゴイスティックに願ってしまう。



だけど、好きな男は別なんだよね。

私は、好きで好きで仕方がないくらい好きな男の幸せを願ったことは、
ただの一度も無い。


ちょっと好きな男や、仲のいい男友達の幸せならいくらでも願える。
 彼らがもし求めてくれるなら、私にできることならしてあげたいと思う。まあ、とは言っても大体いつもお世話になるのは私の方で、私が彼らにしてあげられることなんて多くはないのだけれど、なんというか、そんな風に建設的に幸せというものを考えられる。



だけど、本当に好きな男に関しては、無理なんだよな。

私は、恋愛感情というものは独占欲と同義だと思っている。
 独占欲に、性欲が絡んだものが恋愛だと思っている。

もしかしたら、そうではないもっと高尚な恋愛というものが世の中にはあるのかもしれないが、私には経験が無いのでわからない。
 

自分が、暫定的にであれ他のどの男よりかっこいいと思った男が、同じように女である自分を選んでくれたなら、それほどの快感なんて他のどこを探しても無いわけで、そんな「あなたが一番、だから私も一番にして」という自己肯定欲求と所有欲が性欲と合わさったらもうなんつーか、セックスが楽しくて仕方ないわけである。

「一番」てゆーか、「一番であり、唯一」かな。
おそらく私は、そんな独占欲でもってセックスを楽しんでいる。
その感覚がないと、セックスはつまらない。
まあ、無くてもできるんだけどなんとなく物足りない。
もしかしたらそこらへんの感覚は男女や個人で差があるのかもしれないけどね。


だけど、当たり前のことだけど、現実に人生を生きていると、お互いだけで必要な人間関係の全ては賄えない。

男はたまには他の女を欲しがるし、
 家族愛と性的な欲望は両立しないし、
 愛している男の世界は、私を含めた私以外のあらゆるもので成り立っている。
 私に与えられないものは、他の人間に求めるしかないこともある。
それは私も同じことで、「この人だけ」ですべて賄えることはあり得ない。


だから、生きているかぎりは、私の独占欲は永遠に満たされることはない。

 満たされたような錯覚を得るために、例えばセックスしたり結婚したりするのかもしれないが、結局人がひとりで生きていけないのと同じように、二人きりでだって生きてはいけない。

 独占欲が極まると、早く相手が死ねばいいのにと思ってしまう。
 

今もこれからも自分以外の人間と幸せでいるという想像に耐えられない。
不倫関係のモツレで女が相手の男や家族を殺してしまう事件や、殺してしまった後に男の局部を切り取って持ち歩く女の物語があったりするけれど、私にはその女たちの気持ちがよくわかる。

女である私は自分の身体を切り売りできない。
たまにあちこちから男の身体を頂くことはあるかもしれないが、自分の身体を与える先はひとつである。
たったひとつの与え先である男に対する執着が、どれほどのもんかと思うのである。


もちろん私も良識のある大人なので、今まで男を独占するために殺したり大きなトラブルを起こしたことはないし、私が本当に好きになる男は大抵、完全なる平和主義者で父性的な一面で私の退廃的な欲求を受け止めつつも律してくれるので、「死ねばいいのに」という欲求は今のところ幸いにも現実になったことはない。
まあ、そういうのを律してくれる男を好きになるあたりが、基本的には私もバランスの取れた平和主義者なんだと思っている。



だけど、
好きでいるかぎり、いつも相手の人生が、自分と一緒にいるうちに終わって欲しいと思ってしまう。
本当に相手を独占できるときがあるとしたら、それは相手が私以外の世界と切り離されるときなのだと想像する。
それは、まぎれもなく彼にとっての不幸なのだと知ってはいても。



「相手の幸せ」


そんなこと、貴方が死んだあとにいくらでも願ってあげよう、と私は思う。

幸せを願えないセックスは楽しい。
この退廃的な独占欲が、女に生まれてきた醍醐味のような気さえする。
私にとっての男に対する愛っていうのは、呪いのようなものなのかもしれないな、と思ったりもするけれど。



 独占したいと思える男に出会えることがわたしにとっての幸運で、
 独占しあうためのセックスは快感。
そんな男と互いに独占していると錯覚しあえることが私の幸福。


相手の幸せを願えずに
私は結局なにも手に入れられないまま死ぬのかもしれないが、


それは到底 不幸と呼ぶには値しないと、私は体の全てで納得している。








2016/12/19

粘膜





若干の今さら感はあるのだが、

上野メンズクリニックの、あのタートルネックから男性が顔を出している広告写真の発想が素晴らしいと友人K子さんがわざわざメールしてきた。

小学生男子がそのまま可憐な女性になったかのような、なんともK子さんらしい話題でのメールである。

だけどさ、あの広告ってもう二十年くらい前からあるし、広告の内容的にあまり美しい想像が膨らまないので私的にはまあ軽くスルーしてもよい話題だったのだけれど、こういうほっとけば消えて行ってしまう無駄話を私は結構愛してるので、折角なので備忘録的に記録しておこう。



「イスラム教徒はさ、みんな子供の時に包茎手術するんだよ。」

パキスタン人の旦那さんを持つK子さんならではのおもしろい話題が出てきてしまった。

「でね、終わったらお祝いするの。」

「ああ、割礼みたいなやつだよね?あれって衛生上の理由で始まった風習だよね、たぶん。暑い国に多いもんね。」

「そうそう、日本にいるイスラムの子供は病院で包茎手術を頼むんだって。私としてはこの広告センスが素晴らしい上野クリニックをお勧めしたいもんだけどな。」

「そうか。笑…そういえば、どこの国か忘れたけど、女の子でもあるよね、子供の時に女の子のクリトリスを石とかで削り取って使えなくしちゃうの。」

「ああ、切るのもあるけど、縫い閉じちゃう場合もあるよ。それもイスラム教だよ。解釈によって、女も割礼すべきと考える指導者がいるエリアだと、そうだったような。」

「ああ、割礼自体は宗教問わずけっこうあるよね。クリスチャンでも割礼って聞くし。てゆーかそれよりさ、男は剥けば使えるようになるけど、女は切ったり縫ったりしたら使えなくなるじゃん? なんかひどくない?ソレ。まあ、そういう文化圏特有の因果なり理由なりがあってのことなんだろうけどさ。」

「セックスは子孫を作るためのものだから、気持ちよくなる部分は不要ということらしいよ。縫うのは、小陰唇、かな?股間の真っぷたつに割れてるとこをそのまま縫う、みたいな感じだったと思う。結婚まで処女を守るためだそうだよ。」

「ああ、すっげー嫌だけど、そういう風習があるのは納得できるわ。聞いてるだけで痛くて叫びたくなるけどな。大体は、クリトリスとか小陰唇とか性器の一部を切除するみたいね。縫い閉じるのは、どちらかと言えば割合的には少数みたいね。」

「で、まあ、小さい子供のころにやるから縫ったとこもくっついちゃうじゃん?でも結婚したら使わないといけないから無理矢理縫い目を開くわけで、それがスゲー痛いらしい。」

「・・・・・!!!!」

「ちなみに男性割礼も痛いらしい。みんな痛かったと言っていた。」

「…今、wikiで女性割礼の項目みてみたんだけど、結婚初夜に夫が縫い閉じられた花嫁の陰部を切り開く部族がいるらしく、自力で花嫁の陰部を開いて性交を果たせなければ面目を失う、って書いてあるけど…面目なんか知るかよ。こっちは激痛だよ。」

「あ、ここのサイトに女性割礼の手術方法の種類とか出てる。色々あるんだな。なっつん読んでみなよ。ホラ。」



・・・・・・



「・・・・ごめん、怖くて最後まで読めない。」
「・・・痛いし怖いしでね・・・。」


「なんかさ、勝手な想像なんだけど、女性割礼って、女性を強くしないための風習って感じがしなくもないよね。もともと結婚前の女性は他の共同体への貢ぎ物っていうか、家畜と同じような役割があったわけだから、男が求める意味での処女性が重要視されるってのもわからなくはないんだけど、だけど結局は、こういう割礼って、女がセックスの快感に目覚めるのを、男が恐れたからじゃないかって気もしなくはないんだよね。女性割礼の理由に「性交の快感を抑制する」ってあるけどさ、当たり前の話なんだけど、大体の場合、思春期にセックスの快感を知った健康的な女の子はとりあえず貪欲にヤリまくるし、それは生物の行動としてはとても合理的で、しかも快感を知るってのは欲望の所在であるところの肉体の確認と、獲得欲からくる希望みたいなものを手にするってことなわけだから、あたりまえだけど、強くなるんだよ。そういう健康的で純粋な強い女に浮気されたり遊ばれたりして傷ついて女性不信になった男も何人か知ってるけど、そういう男を見てるとさ、男ってホントに繊細で傷つきやすいんだな、って思うよ。男も女もどちらも純粋だけどね、女はその純粋さの基盤が生理的な強さでできているけど、男の純粋さっていうのは雪の結晶みたいな脆さで構築されてる感じもするわけよ。そんなナイーブな男たちが欲望のままに強く生きる女たちを恐れて、こういう女性割礼みたいな文化を築いたんじゃないかって想像するとさ、なんかちょっと愛おしくならない?っていうか、そこまで言っちゃうともう想像ってゆーか、私の妄想ではあるんだけどさ。」


なんつーか、こういう割礼みたいな文化と無縁で育ってきた私からすると、大人になってから自分の好きずきで肉体改造するならまだしも、半ば義務的な子供に対するこんな痛い文化とか風習なんか、もうやめればいいのに・・・・!!って思うんだけど、まあそれも単なる「人権(西洋文明)」と「伝統習慣」における文明の衝突、または「自分の物質的な力に浮かれ最早自分の精力の十分な捌け口が自身の中に無いと感じ、どこかで服従の身にあるものを助けたいと思い支配欲を潜ませた干渉趣味」と、とあるサイトでは一蹴されておりました。そんなもんですかね。まあ、もともと選択肢が思いつかなければ選べないからね、風習ってそういうもんだしね。


ここまで話して別の話も思い出した。


「日本の地域的な昔の風習でさ、その地域の長が、結婚前の処女の破瓜をするっていうのあるよね。夫より先にやっちゃうやつ。」

「ああ、処女権だよね。処女権は、ヨーロッパにもあるよ。結婚前に領主が頂くやつ。…あ、違った。処女権じゃなくて、初夜権だ。内容は同じだけど。」

「そうなんだ。その風習だけどさ、古代の神事が起源になってるとか、処女の血が忌み嫌われてたからだとか、処女膜の確認とか理由は色々あるみたいだけど、とりあえず、処女性が重要視されていたとしても、先に領主にヤラれちゃうわけだからさ、実際その娘が処女だったかどうかなんて夫にはわからないわけじゃん?だから、例えば結婚前に不貞してたりとか、やむをえない事情で結婚前に処女膜を喪失してる女の子とかにとっては、ありがたい風習だったと思うのよね。真実は領主の胸の中だけにあるってことでね。なんか風習って、そういう実利的な一面って必ずあったりするわけじゃん?」


「ああ。なんかさ、…さっきの女性割礼のサイト見てたらさ、割礼の一種で、膣を切開して大きくするとかもあるらしい。子供産むときのためって。事前会陰切開的な…?」


「…え!!なんで!!なんでそんな余計な事すんの…!!頼むからもう切ったり縫ったりしないでよ…!」


「出産時の負担を軽減するためらしいが、実は余計痛いらしいと書いてあった。」



まじかよ。



……ていうか、なんでこういう粘膜系の話って、想像するだけでこうも痛いんでしょうね。









2016/12/12

愛の説明

photo by maeda natsuko

私は、自分が産まれてくる前の気持ちを少しだけ覚えている。

肉体を持ち産まれてくることを、
肉体を持つことで味わえる様々な感覚や感情を経験することを、
私は産まれて来る前から、多分母の身体に宿る前から、
心から楽しみにして、わくわくしていた。

早く産まれてきたかった。
肉体という重さを味わうことが、楽しみでしかたなかった。

私はその感覚を、今でもたまに思い出す。

肉体を持つことに対する、憧れの感覚。


*****

先日の、二度目の大阪でのヌードメヘンディの撮影で、
ふいにまたそんな感情を思い出した。

この撮影は私と友人のメヘンディ描きのTARAちゃん、
そして写真家の高田一樹さんの三人で行われたので、
きっとそれぞれに三様の思うところがあったと思うが、
私はまあ、そんなことを考えていた。

肉体という「重さ」に対する愛おしさ。

重さのある世界に生きることの幸福。

肉体は重くて、立ち上がるのにすら重力に逆らうだけの筋力がいる。
肉体は、損なえば痛く苦しい。
食べなければ保ち続けることもできないし
死ねば醜く腐るし臭いし汚い。

肉体があるからどんなに焦がれても他人とはひとつにはなれないし
だけど肉体がなかったら初めから境界線もなかったわけだから
出会うこともヤルことも別れることもなかったわけだ。
境界と摩擦の熱を楽しめる幸福。

舌があるから隣で寝てる男の汗の味もわかる。
眼があるから光の色も見える。

皮膚があるから抱きあうと気持ちがよくて
たまに破けば血が流れる。
生暖かいのは血ではなく自分の身体そのものだと気付く。
痛いのは自分の身体が生きているからだと。

さすがに覚えてはいないが、最初にこどもが母の子宮から出てきて
初めての呼吸をする時って、肺や気道が刺すように痛いのではないかと想像する。
初めての、空気の刺激なわけだから。
私はきっとそんな痛みにすら憧れていたのではないか、と。

身体に絵を描いたり描かれたりするのが好きなのは、
自分の身体の輪郭を確認したいから。
肉体の輪郭は、そのままその人の命の輪郭になる。
肉体に命が宿るわけではなく、肉体そのものが命なのだと思う。

私が人の身体に描くのが好きなのは、
別にそれを通して何か表現したいことがあるわけではなく、
単に肉体を、命の艶を愛でるその作業を楽しんでいるだけのことなのだと思った。
大好きな白御飯を昨日も食べたが、それは美味しいから食べたくて食べただけのこと。
私にとってはメヘンディも、ただそれだけのこと。

SでもMでもないのに鞭で打たれるのが好きなのは、
肉体の痛みが、精神を支配するということを感じられるから。
精神は、決して肉体には勝てない。
肉体の痛みの前では、精神の尊厳なんか意味をなさない。
生きていることのほとんど全ては肉体に支配されているということを、
感じるだけの時間。

私は肉体が持つ感情という波に振り回されることを楽しむために、恋をする。
人を憎んだり、求めたり、他者とは決してひとつにはなれないと、
悲しむことを楽しむために、人を愛する。

自分の肉体をたしかめ、愛おしむためにたまに病気になり、
ほかの生き物たちの生命力を自分の肉体の糧にするために、今日も私は食べる。
食べたものでしか、自分の肉体は作られていないことに気付く。
生き物を殺すことでさらに生きる、自分の身体の強さと尊さを知る。

肉体と戯れているようで、実は肉体を忘れるためにセックスをする。
同化する錯覚を味わうために。
快感が増すほどに死にたくなるのは産まれてくる前の世界に戻りたいから。
自分の存在なんかどうでもよくなるくらいの同化願望。
同化するためではなく、同化を渇望するための、肉体の欲求。

私は肉体を持ちながら、重さのない産まれてくる前の世界に焦がれることを、楽しむ。
私が産まれて来る前に、この肉体に焦がれたように。

いまここに無いものに焦がれる。
自分ではないもの全てを手に入れたいと求める。
有ることが幸福なのではなく、求めることが幸福なのだと、
未だ解りきれない私はいつも、すこし辛くて不安で悲しい。




2016/12/05




他人のセックスをナマで鑑賞していると、感慨深いものがある。


男友達の樹さんが、自分と彼女とのセックスをビデオで撮影してほしいと、
私に声をかけてきた。

「撮影だけでいいんだよね?」

「うん、もちろん。とてもじゃないけど、三人で仲良く3pとかは彼女が無理だから。
彼女はセックスレスのご主人と二人の子供を持つ主婦歴15年の40歳で、
2年前に僕と付き合いだす前までは子づくり以外のセックスをほとんどしてこなかったような保守的な女性でね、なんていうかうまく波長と身体が合って、この二年間は二人でできる範囲で、いろいろ楽しんだんだ。
で、今回、初めて、第三者をいれて楽しんでみようかな、と、僕が勝手に計画を立ててみたんだけどね。」

「勝手に、って言っても、事前にちゃんと彼女には話すんだよね?
 今日は僕たちのセックスを第三者が撮影します、って。」

もちろん、だけど当日の、ホテルに入る直前にね。
と樹さんが楽しそうに言ったので、私もなんだか楽しくなって引き受けることにした。


自分の恋人や配偶者とのセックスに第三者を介入させて楽しむ人たちは、意外と多い。
カップル同士で相手を入れ替えてセックスを楽しむ人もいれば、今回のように自分たちのカップルに男か女を一人、加えて楽しむ人もいる。
どちらにしても大概の場合、馴れ合って今ではもう親密すぎるパートナーとの関係性に、第三者という刺激を加えて楽しむことが目的だ。

結局セックスは、『他人』とではないとできないってことなんだろうな。


*****


ホテルのロビーでまず樹さんと彼女と顔をあわせ、
部屋に招かれビデオカメラを渡された。

部屋に入っても、緊張が極まった彼女はなかなか私と眼を合わせてくれなかった。

だけど、私による撮影を了解はしてくれた。

「彼のことを信じているから」と、彼女が言ったので、彼の旺盛で複雑すぎる女関係を知っていた私は内心、大丈夫かこの人は、と心配になったがそれは私の知るところではないと思いなおした。

「この撮った映像は、誰が見るの。樹さんだけ?それとも二人でみるの?」

「僕だけ。彼女は恥ずかしがって絶対に、見ない。」

そうかじゃあ、樹さんじゃなくて彼女の表情とかをメインに撮ればいいんだなと了解して、
カメラの録画ボタンを押した。


彼女の喘ぎ声がかなり大きく絶対廊下にまで響いてるに違いないこと以外は、セックス自体は至って普通だったので、というか型で押したようにスタンダードだったので特に見ていて新鮮なことはなかったけども、私はそれより樹さんの思惑が気になった。

私はその時より以前に、樹さんと数回ヤッたことがあった。

いまここで彼の下に敷かれあんあん喘いでいる彼女は、
果たしてそれを知っているのだろうか?

もし聞かされて知っているのであれば、今 彼女は彼に対する屈辱感と私への嫉妬心を肥やしに興奮しているのかもしれない。
もし知らなければ、単純に、本来は秘め事であるはずのセックスを他人に眺められているという非日常感と背徳心に酔っているのだろう。

本来、自分と相手すらいれば事足りるセックスに他人を加える理由なんて、
結局はそのどちらかだ。

ただどちらにしても、彼女が、というよりは彼女をそうさせたい樹さんのシナリオでしかないわけだけど。


人間っていうのは、なんて面倒なセックスをするのかと思う。


屈辱感や嫉妬心で自己愛を燃やして、
背徳感で社会性や人間性から一時だけ自由になって、
そんな刺激をもセックスの材料にして興奮している。


身体が本来備えてる性欲の量だけではもの足らず、
頭のどっかを刺激して興奮して、本来の肉体以上の量の欲を生み出す。

欲を満たすために、欲を生み出す。
いったい人間っていうのは、どこまでたくましく傲慢なんだろう。

屈辱感も嫉妬心も背徳感も、羞恥心ですらも、本当は自分自身が作り出したものでしかないはずなのに、
それをあえてハードルや埒(らち)に見立てて、飛び越えたり眺めたり、
時にはあえて飛び越えなかったりして楽しんでいる。


倫理や道徳に背くわたし。

ないがしろにされる、
こんなにも愛しいわたし。


本当はこんなに自由なわたし。

羞恥心に耐えられるのは、
それだけ彼を愛しているから。


こんなにも屈辱を感じるのは、
それだけ私が、私自身を愛しているから。




ねえ、

その女とわたしとどっちが綺麗なの。

ねえお願い、もっとわたしをみて。


わたしを。



あえて埒(らち)に捕らわれることで、埒を飛び越える快感を知る。

あえて埒を越えず眺めることで、自分の無力さといとおしさを噛みしめる。

埒という自分で作った限界が、欲を生み、私自身を欲情させる。



「・・・ホント、人間のセックスってめんどくせえな。」


と、この翌日、友人のひとりにぼやいたら、

「あ~、わかるわかる!だからわたしさ、動物の交尾とか見るの大好きだもん!
 見てると安心するんだよね~。」

と返ってきた。

「え!うそ私もなんだけど!私も動物の交尾ってすき。
清々しくていいよね、単純明快で。
なんかさ、人間同士のセックスみてると、複雑すぎてめんどくさくなってくるんだよ。
相手を支配しているだとか、辱めているだとか、道徳的であるだとか、ないだとか、ある人々にとってはそんなものがセックスの興奮材料になったりする。

なんでセックスにそんな理由やストーリーが必要なんだろう?

なんで人間は、動物みたいにただあっけらかんとセックスできないんだろうね?」

人間はいつも、自分たちが作り出してきたもので、自分たちを苦しめる。
愛や、宗教や社会性や道徳や、ヒューマニズムで自分たちを縛りつける。

縛りつけられながら、苦しみながらそれと戯れる。
まるで 縛り付けられているからこそ、生を謳歌できると言わんばかりに。



「そうそう、だから動物の交尾っていうのはさ、
それ以上でもそれ以下でもないって感じが、いいんだよね。」

それ以上でもそれ以下でもない動物の交尾を羨ましいと思うのは、
きっと複雑すぎる人間の交尾に私自身がついていけてないってことなんだろな。
羞恥心も倫理観もどこかで大部分捨ててきてしまった私には、
きっとそんな高尚なセックスなんてする資格はないんだろう。


樹さんと彼女のセックスもあらかた終わって、ほんの二時間足らずの間で齢55にして二回もイッたこの男はホントにすげえな、と感心しつつカメラの電源を切った。

「せっかくの他人撮影の動画だから、二人きりじゃ絶対撮れないようなアングルを多用しておいたから、なかなかによい映像になってると思うよ。」

と言って樹さんにカメラを返したら、樹さんはありがとうございました、と
礼儀正しく言って、カメラを置いてそのままバスルームに消えた。


よく、OKしましたね。」

と、その日はじめて二人きりになった彼女に声をかけたら、
さんざん見ず知らずの女の前で喘いだあとでのふっきりなのか、
意外にも彼女は清々しい顔で私に笑顔を向けてくれた。

「いえ、勿論最初は、どうしようって思ったんですけど」

40歳にしては目尻に深く皺が刻まれている感じがした。

「ですよね」

「でも、私、彼は私にとってダメなことはしないって信じてるし。」

彼女はソファに丁寧に丸めておいてあった自分の下着を取り、私の前でつけ始めたが、その下着も年の割には子供っぽく、安っぽいもののように思えた。

「うん」

「それに、今まで彼に会うまでの私って、本当に、セックスを楽しむって感覚が全くなくて、むしろめんどくさいって思ってたくらいで、本当につまんない人生歩んできたなって思ってるから、これからはもうちょっと、楽しんでいきたいんですよね。
だけど、楽しむっていっても、いままで何もしてこなかったし、何も考えてもこなかったから、どう楽しんでいいのかもわからなくて、だから、とりあえずは、彼が言うことなら、なんでもやってみようって思うんです。それで、まずは、自分が何が好きで、何が嫌いなのか、自分でわかったらいいなって思って。
いままでは、それすら、わからなかったから。」


・・・・ああ、ナルホド。

たしかに、セックスにおいて自分が何が好きで何が嫌いかを知っておくって、すごく大事だよね。
特に女の人の場合は、何も考えず男の欲望に合わせてると傷つくことも、多いから。

下着をつけ終わった彼女が「ナツコさんもいつもこんなふうにちょっとアブノーマルなことして遊ぶのが好きなんですか」と聞いてきたので、いいえ、私はふつーに好きな人と正常位でするのが一番好きです、と答えた。

実際それは本当だけど、それだけじゃずっとはやっていけないと、もちろん私もわかっている。
いわゆる愛がなきゃセックスはつまらないけど、いわゆる愛だけじゃセックスは、絶対できない。
それはとても不甲斐なく哀しいことだけどある意味少しだけ楽しくて、
だからこそ私は今日、ここにきたんだ。

樹さんがバスルームから帰ってきたのを頃合いに、私も部屋を出ることにした。

撮影係の私を含めてのふたりのセックスはおわったが、
緊張感から解き放たれた彼女は今度は二人っきりで彼に甘え、今までのセックスで感じた様々な感情を昇華させ反芻し味わいながら、もう一度セックスをしたいはずだ。
もちろん樹さんもそうだろう。


ていうか、どっちかってーとメインはそっちなんだよな。
今までのセックスが、前戯みたいなもんでな。


ただ一時の興奮を求めて、こんなにも労を惜しまない人間というのは
果たしてくだらないのか たくましのか、
それともそれを考えることすらもうすでに馬鹿馬鹿しいのか、
様々、感慨深い一日でした。