2012/07/29

交尾

落日 by natsukomaeda 2001





「動物の交尾映像を見るのが好きなんです。」と 人に言うと
大概、理解できない、という顔をされるか笑われるかのどっちかなんですが

とある小説を読んでいたら
そんな動物の交尾好きの私の胸をつらぬく一節がありました。


『サバンナでのライオンの交尾や、壮大な儀式のように腹を寄せ合う鯨の交尾、
犬たちが忙しなく行う交尾、映像や写真でそういうものを見る時、
春はとても幸せそうな顔をする。

「彼らはセックスの時に言い訳をしたり、勘違いをしていない。
人間は賢いからさ、セックスの最中にも自己欺瞞や勘違いばっかりだ。」

「勘違い?」

「相手を支配しているだとか、辱めているだとか、道徳的であるだとか、
道徳的でないだとか、余計な事をぐちゃぐちゃ考えるんだ。
宗教や神にまで結びつける奴もいる。
性的な場面を描けば文学的だ、官能的だ、ともてはやす奴もいる。
セックスをしたところで、何も超越しないし、誰のことも支配できない。
人間の性は、動物よりも数段、馬鹿馬鹿しい。」』


この小説、買って読んだはいいけどすっごくつまらなくて、
だけど、折角だから暇つぶしにちょっとずつ読んでいたのですが
この一節に出会ってしみじみ、ああ、ここまで読んでよかったなあ、と思いました。


自分の欲望というものにしっとり浸かってみたいと思って
最近、エロの世界に今までより深く足を踏み込んで、
さらにSMとか縄とか特殊な性癖の必要な方面にも関わってみたりしていたのですが

なぜか、

そういう「特殊な性癖」というものに関わり出すと、
私は妙に息苦しい。

「性癖」という人間特有の精神性と戯れだすと、
私は解放されるどころか窮屈になって苦しくなる。

なんで、人間は動物のように、あっけらかんとセックスできないのだろうか?

なんで、セックスに「愛」という高尚で利己的な精神性が必要なんだろう?
「愛」にこだわりだすと、そこからがんじがらめになる気がする。
だって、「愛」という言葉自体がそもそも人間が作り出したもので、
人間が言葉で創作してきた世界というのは、
常に言葉で創作してしまったことによる矛盾と、
言葉で割り切れなかった、言葉では理解できないものが存在してしまうから。

人間はいつも、自分たちが作り出してきたもので、自分たちを苦しめる。

愛や、宗教や社会性や道徳や、ヒューマニズムで自分たちを縛りつける。

縛りつけられながら、苦しみながらそれと戯れる。

傲慢な言い方だけど、そういうものから自由になりたいと、
私はずっと思ってきた。

人間は、セックスをもとても複雑にする。

自己開発の手段にしたり、生きて行く糧にしたり、
トラウマの克服や自分の価値を認識する手段にしたりする。
愛の対価にしたり、されたりする。


とても、めんどくさい。


それに比べて動物っていうのは、なんて自由で気持ち良さそうなんだろうって思う。
私はそういうものが、とても、羨ましい。


だけど、せっかく人間に産まれたわけだから、


そんな複雑な自己欺瞞のセックスを味わうのも、
人間特有の醍醐味なのかもしれない。

わざわざ自分たちが作り出した矛盾の海に足を突っ込んで、
溺れながらそれを楽しんでいるような、
人間っていうのはそんなパワフルな存在なのかもしれない。


最近は、ちょっとだけ、そういうふうに思う。