2016/08/29

不妊



なんつーか、シビアな話だよなと思う。


「できないんだよね」


友人の寧々ちゃんが無表情でそう言った。
この女が無表情になる時っていうのは怒ってるかイラついてるかもしくは悲しいか、とりあえずは昂ぶっている感情を見せまいとしているときである。


「なにが」


「子どもが。もう二年も、子作りしてるんだけどね。」


「・・・ああ、それは、また、いや~~な話だね。その、子どもができないっていう不妊の話はさ、女がする話の中で、たぶん一番シビアで重~いウェーブを発する話だと思うよ。」


そのとおり、重い話だけど聞くかと言われたので、私は喜んでウンと言った。
聞くだけなら、私はどんな話だって楽しい。


「たしかにさ、時代にもよるのだろうけど、ちょうど今の、寧々ちゃんとか私たちぐらいの年代になるとよく聞く話だよね。私の友達でもさ、旦那さんとのセックスレスで子どもができないとか、してるけどできなくてもう何年も不妊治療してて辛いって子とか、あとはめずらしいとこだと彼氏が昔にパイプカットしていて、パイプの復旧手術も今はできるからすれば子作りもできるんだけど彼氏がしてくれなくて、彼氏は結婚したがってるんだけど彼女は子作りができないなら結婚にはウンとは言えないって言いながらも、もう7年も付き合ってるカップルとかね。まあ、いろいろあるさね。」


寧々ちゃんは数年前に、当時妻子持ちだった50代の男と結婚した。
相手の男は離婚に際して徹底的に身ぐるみ剥がされ、現在は経済的には誉められた様子ではないようだが、寧々ちゃんはそこらへんはあまり気にはならないらしい。女の経済的な自立と自由恋愛っていうのは、やはりセットなのだなと実感する。


「子どもができないってさ、ホントにつらいよ。安易に子作りを始めた自分を呪うくらいには、つらい。」


「うん、知ってるよ。私も、昔だけど、そういうことあったから。あれってさ、女の排卵が一ヵ月に一度っていうこと自体が、つらさを助長させてる気がしない?」


「ああ、当てなきゃいけないってこと?」


「いや、っていうよりさ、どんなに頑張っても、基本は一ヵ月に一回、できるかできないかのサイクルじゃん?今月ダメだったら、また来月まで待たなきゃならない。来月ダメだったら、また再来月。どんなにがんばっても、ひと月一回。ひと月単位で何かを成し遂げようと思ったら、常に月に一回ずつの排卵と生理を気にしながらの毎日なわけで、すぐに一年くらい経っちゃうんだよ。一年分の疲労感付きでさ。しかも、その一年のうちのほとんどの時間が待ちの時間なわけだから。待ちの時間って、つらいじゃん。その間は頑張りたくても何もできないわけだし。その待ちの時間の、その疲労感たるやなんつーかもう思い出すだけで吐き気がするね。」


「わたし、ちょうど子づくりはじめて二年になるんだけどさ、最初の半年くらいはさ、結構冷静に前向きにいられたんだけどさ、一年過ぎたぐらいの時からかな、段々、鬱っぽくなってきた自分に気が付いてね。ちょっとこれはまずいなと思って。落ち込む期間が毎月毎月、長くなってくるんだよね。たぶんPMSとかホルモンのせいもあるのかもしれないけど、たぶん相互作用なんだろうね。先月ついに落ち込みが一番ひどいときにベッドから起き上がれなくなってね。なんか、自分に対しての後ろ向きな思考で頭がいっぱいになっちゃって、もう、何もしたくないって、頭が、っていうか身体がもう活動拒否状態っていうか、そんな感じで。一日だけだけど、とうとう仕事や休んじゃったんだよね。こんな理由で寝込んで仕事休むとか、自分でもびっくりしたよ。」


「ああ、わかるわかる。あれはさ、「子どもができない」って思考から始まるマイナス思考の無限ループなんだよ。それで鬱になるっていうのはすごくよくわかるよ。人にもよると思うんだけどさ、大体、「こどもができない」ってことから始まって、何の根拠もないんだけど「そんな自分には価値がない」ってとこまで思考が段階的に行く気がするんだよね。その人の社会的な立場にもよるだろうけど、結婚しててまわりから子供を望まれてたりとか、そういう対外的なプレッシャーは女性の生き方が多様化した分、昔よりも今は少ないと思うんだけど、自分が、自分に与えるプレッシャーっていうのは変わらずあるからね。で、例えば「こどもができない」から始まって、「なぜできないのか」ってとこから無闇に原因探しに走ってループを深める場合もあるし、ありもしない原因を探り続けるのも悲劇だけど、その原因がはっきりしている場合も大変じゃないかと思うんだよね。まだまだ、頑張れちゃうっていうか、頑張りようがあるわけだから。まあ、私の場合はそこまで頑張ったことないから、っていうか、そこまでは頑張らないって決めてたから、結果的に頑張ってなくてわかんないんだけどさ。」


「ああ、多分、セックスレス以外のできない原因なんか、知らないほうがいいと思うよ。できないならできないで、今は女の人だって色んな生き方ができるわけだから、それでいいじゃんって。・・・・・・って、理屈ではわかろうとするんだけどね。無理なんだよ。」


「そうだね。無理だね。」


「・・・・なんか、変な言い方だけど、神様に見放されてるような、そんな気がしてくるんだよね。わたし、無神論者なのに。」


「・・・授かりもん、とか、運とか、そういう言われ方をするからね。じゃあ、できなかった人には、そういう神様からの何かがなかったかのように感じれなくもないからね。まあ、運みたいなものを、偶然と捉えるか、必然と信じているかにもよるんだとは、思うけどね。」


「できない、って、完全にわかっちゃえばもう少し楽かもしれないと思うんだよね。それはそれでつらいよと言われるかもしれないけど、もしかしたらできるかも、と思ってるほうが、思ってる限りはつらいのが続くよね。毎月の、淡い期待と断崖の深淵みたいな落胆の高低差つきでさ。」


「ああ、そうそう、その高低差がね、つらいんだよね。ていうか、だったらむしろさ、一度、病院で検査してもらったらいいんじゃないの。ダメな理由がわかれば割り切れるだろうし、可能なら治療もできるだろうし。それに今はさ、人工的な妊娠っていうのももう珍しくないじゃん?命の発生は神の領域だとかいってそういう人工的な妊娠をいやがる人もいるけどさ、人間なんてもう明らかに本能は壊れてるし、壊れた本能を支えてるのはもう文化とか文明でしかないと思うんだよね。それに昔だったら神様の仕業みたいなことでも、科学が進歩した今なら普通のこともあるし、ていうか、昔は人間に不可能なことは神の仕業だったわけでしょ、今はまだめずらしい人工的な妊娠だって20年先にはもうスタンダードになってるかもしれないでしょ。え、まだあなたのとこ、セックスしてるの?みたいな。もう今はさ、生殖行為自体、もう本能じゃなくて趣味なんだよ。だからゴルフとか俳句みたいにそういうのか好きな人たち同士がやればいいだけの話でさ、だから人工的な妊娠がやっと自由診療ではあれ誰でもできるようになってきたってことはすごくまっとうでありがたいことなんじゃないの。まあ、だけど、病院で検査とかそういうのは、彼が、嫌がるかもしれないけどね。」


「いや、彼はね、検査してみてもいいって言ってくれてるのだけど、私がいやなんだよね。それは、子作りする前に自分で決めたの。私は、他のこともそうなんだけど、できるときは自分が望まなくてもできるし、できないときはどうやったって、できないって、思ってるから。実際、私一回、前の男との間に妊娠してるし、まあその時は私の都合で堕ろしたんだけど、できるとかできないって、そういうもんだって思ってるから。そういう、自分の欲求を超えた力っていうか、運とか、自然の摂理、みたいなものとか、まあ、もしかしたら誰かはそれを神様とかいうのかもしれないけど、そういうものに対しては謙虚でいたいっていうのが私にはあるから、だから、ホントは今回のこともできないならしょうがないって、受け入れたいんだけど、なんか、まだ気持ちが追い付かないんだよね。なんか、思ってたより、納得するのに、時間がかかりそうで。」


「女の人って、頭で考えてるっていうよりかは、いろんなことを、生理的に、身体で考えたり決めたりしているようなところがあるからね。何かのきっかけで身体が「産みたい」ってモードに入っちゃうと、なかなか切り替えるのも難しいんだろうね。理屈で納得、なんて浅はかさとは無縁な分、こういう時はつらいよね。あとは、不妊期間が長いほど精神的に産むことへの執着も強まるだろうしね。執着は「すき」と違って全然楽しくないからね。むしろ、「欲しい!」っていうキラキラした希望が「できないんなら死にたい」っていうくらいの呪いになり得なくもないっていうか。」


「別に、子どもとか、好きじゃないんだけどね。」


「それとこれとは別問題なんだよ。」


「私の彼氏さ、一度離婚してるから、前の女との間にふたり、子どもがいるんだよね。中学生と小学生の男の子がふたりなんだけど、その子供のことは今でも、凄く可愛がってるの。その子どもが大事っていうのは、もちろんよくわかるんだけど。」


「うん。」


「わかるんだけど、私は、前の女との間にできた子どもなんて全然好きじゃないし、ちゃんとした人間は自分の好きな人の大切なものは自分も大切に思えるのかもしれないけど、だけど私はそんなの絶対無理だし、だって、自分以外に自分以上に大切なものがあるなんて嫌じゃない。せめて、自分と同じくらい大切なものが、自分と、彼との娘だったら、いいのにって。」


「あ、娘、って、女の子限定なんだ。」


「うん、わたし、もし生まれるとしたら、絶対女の子がいいの。っていうか、もし、生まれるんなら女の子、って信じてるの。っていうと思い込みが酷くてやばいと思われるかもしれないけど、ホントに、もし男の子だったら、子どもなんていらないんだよね。」


「それは、すでにいる子供たちが、男の子だから?」


「たぶん、・・・・それもあると思う」


そこまで聞いて、私にはなんとなく、寧々ちゃんが考えてることが解ってしまった。


寧々ちゃんは、多分、その生まれるべき自分の娘に、自分自身を投影しているのだ。


「彼と、自分の間にできた娘を、彼が溺愛しているって想像すると、なんだか、気が済むんだよね。彼のことを、本当に、手に入れられたような、そんな気がして。実際にそんなことになったとしたって、自分がどう思うかなんて、本当には、わからないのにね。」


寧々ちゃんはきっと、女として充分に愛されるけでなく、彼の子供に対する愛情まで、独り占めしたいのだ。


思い込み云々というより、私は寧々ちゃんを、欲の深い女だな、と思った。
満足とか幸せがどうとかいうより、多分この女は、愛した男ひとりを食いつくさない限り、きっと気がすまないのだろう。
大体この女は一人の男を離婚させて結婚して、それだけでもすごいパワーというか、執着だなと思う。でもそれでもまだ、気が済まないんだろうな。


まあ、欲を満たすために欲を作り出すのが人間だとしたら、きっと寧々ちゃんはとても健康的なのだ。
女が全てそうだとは全く思わないが、たぶん、中にはこんな女もきっといるんだろうな、と思った。



「変な話だけどさ、最近彼とセックスしてる時にね、自分が、彼と自分との間にできた娘になって、その娘が彼とヤッってるって、そう想像しながら彼とするとね、すごく親密な気持ちになって幸せなんだよね。そんなの、現実でしたら父と娘だし近親相姦だし、やばいだけなんだけど、なんなんだろね。わたし、ファザコンの気とかもないはずなんだけど。で、たまに冗談でさ、彼に『もし娘ができたら、娘と私と、みんなで3pしようね』っていうと、彼はまあ冗談だと思って笑うんだけど、ていうか、普通の男なら笑いもしないと思うんだけどね、彼氏は結構そういう方面には寛容なひとだから、まあ、軽くいなすんだけど、私はね、万が一自分に娘ができるとしたら、それはある意味では、彼と私の間で消費されるものだと思っているの。
まあとはいってもそれはもちろん妄想だから、実際にできてもそんな風にはしないと思うよ。だけど、そういう妄想は何かの原動力として確かに私の中にあって、私が子どもが欲しいと思う理由は、それなわけだから、だから、そういう意味ではそれもひとつの真実ではあるのだけど」


「圧倒的な自家消費だね。父親が娘を消費したら、後には何が残るのかね。」


まあ、妄想だからね。
と寧々ちゃんは笑って言った。


「こんなこと考えてるから、できないのかな。」


そう寧々ちゃんはわざと自嘲気味に言ったが、それが彼女の運命的に可なのか不可なのか、きっと寧々ちゃんは自分でも他人でもない何かに、決めることを託していて、それ以外の何者にも決めさせまいと、きっと彼女は固く決めているのだろうと思った。


「友達にさ、今度、顕微受精するかもっていう子がいて。」


「ああ、男の人の方の、精子の活動が弱いのかな。直接卵子に精子を、こうチクッと注入するやつだよね。」


「そうそう。でね、私は、そういう人工的にでも子どもを作ろうとする人ってさ、なんか、自分の限界を認められないわけで、潔くない往生際の悪さとか、自分の力でなんとかしてやりたいという傲慢さとかを感じたりもするんだけど、だけど、結局はさ、じゃあ、病気で苦しんでる人に、もうそれはあなたの限界なんだから、潔く苦しみなさい、死になさい、って言ってるのと同じようなことだとも思うんだよね。別に、不妊の人が不治の病の人と同じくらい苦しんでるとか、つらさの程度のことを言ってるんじゃないよ、自分の現状に対する不満と、そこから脱却したいという欲求は、すごく自然な、欲じゃないかって話。それに、その限界の概念もあたりまえだけど時代によって変わっていて、その過渡期には勿論悩む人も多いわけだけど、だけど現実に不満を解消する選択肢は無数にある場合もあるわけだよね。不満の、どの地点を基準にして決断するかは、時代とか文化とか個人によるけど。その欲求がどれだけ大きくなるかは、それが可能になる手段が可能な形で目の前にあるかどうかってことにもよるしね。」




何か私の言葉が不服だったのか、

そうだねえ、とか、当たり障りのない返事を嫌う寧々ちゃんは、何も返事をせず、黙ってまた端正な顔を無表情に戻した。

少しだけ沈黙で私を威圧して、そしてまた口を開く。


「だけど、やっぱり私は、いやなんだよね、だって、どこかで、自分がやるべきこととそうでないことに線を引かなきゃ、結局はどこかで自分が、苦しむわけでしょう。欲求なんて、形を変えてどこまででも、続いていくんだから。その基準は、人によるのかもしれないし、たまたま、私の基準がそこだったていう、そういうことだと思うよ。」


そう、寧々ちゃんは何かを割り切るように言葉を紡いだが、
そんなふうに、いつも割り切れない何かを内包する寧々ちゃんの顔は、今日もとても綺麗だ。