2013/01/27

休み


ここ二週間くらい、ひどい風邪をひいてました。

勤め人ではないことのメリットのひとつとして
体調を崩した時に堂々と好きなだけ休める、ということがありますね。

お客さんの了解さえとれれば、他には気兼ねするものは無いですから。

「てゆーか風邪引く前に体調管理くらいちゃんとしなよ」
なんて言われちゃいそうだけど
風邪なんて、どんなに注意しててもひいちゃう時にはひいちゃうしね。
それは誰しもがおたがいさまというものです。

思えば、タイ式マッサージ屋に勤めていた時は
風邪で熱が38度超えてても予約を消化するために身体に鞭打って働いていたけど、
そういう重労働をやりぬいた自分を誇るような環境からはもう足を洗っちゃったからなあ。

今週はゆっくり休んでます、

なんて 友人のケーコさんにつぶやいたら

「うん、そんなん誇ってもなんにもならんのにね。日本人の仕事スタイルって理解不能だよ。お大事にね。」

と 返事がきました。

本当にそうだよなあ。

そんな感じでここのところゆっくり休んでおりました。

それにしても今年の風邪は、いやらしいくらいにしつこかったなあ。





2013/01/14



癒し産業のど真ん中で働いてるくせに
昔から「癒し」という言葉がキライである。

大体、「人を癒したい」なんて言うヤツにろくなヤツいないと思うんだよ・・。
だって、「自分には人を癒す力がある」と思えるなんて、
傲慢以外の何ものでもないじゃない。

私はそういうものに、
人間の傲慢な支配欲が内在してる感じがして気持ちが悪くなるんだ。
最近流行ってた「メンタリスト」とそれに群がる女達がどうにも好きになれないのも、
もしかしたら同じ理由かもしれない。

そんなに支配したりされたりしたいんなら、SMでもやればいいのに・・・。
自分の傲慢な欲求を自覚してる分、そっちの方が幾分ましかと思うんだよなあ。

例えばマッサージならマッサージで、
マッサージという技術を提供するということが私たちの役目であって、
それによって癒されるかどうかはお客さんの勝手だと思うんだ。
「さあ、癒されてください」なんて気持ちで施術されたって、
そんなの大きなお世話っつーか・・「癒し」の押し売りっつーか・・・。
もっと言い方変えれば「愛の押し売り」?

なぜ、自分が金払って担当マッサージ師のエゴを満足させてやらなきゃならんのだ。

と、私が客ならそう思うね・・・。

しかし かくいう私もマッサージを始めた頃は「癒し」についてマジメに考えていた。

大体マッサージセラピストというものは
「癒し、リラクゼーション系」と矯正などの「治療系」に大きく分けられ、
「癒し、リラクゼーション系」は「治療系」より幾分、
格下扱いされているような気がしていた。

事実、「癒し、リラクゼーション系」から「治療系」に転身する人も多かったし、
そういう人の多くは「もっと多くの技術を学びたいから」と口にしていた。
癒し系にいたら、多くの技術を獲得できないのだろうか?というよりも、
癒しやリラクゼーションという分野を、もっと追求していきたいという人が、
私の周りには少なかったという、ただそれだけのことなのかもしれないけれど。

私は当時、究極の癒しは「恋愛」だと思っていた。

だって好きな人と会えるだけで、
ちょっとの風邪くらいなら治っちゃったりするじゃない。

好きな異性を目の前にした時って、興奮もするけど、
不思議とリラックスもするんだよね。
交感神経も副交感神経もいつもより活発に働く気がする。
しかも、いつもよりも良いバランスで。

だったら、それこそ綺麗でセクシーな女がマッサージを施してくれたなら
男にとってそれに勝る癒しはなかろうと、私は普通のマッサージより幾分、
施術者と受け手の距離感が近いタイマッサージを学んだ。
マッサージ屋には女性客も来るだろうに、その時の私は女性客なんて全く眼中に無かった。
自分は女だし、私が癒すべき相手は男だと当然のように思っていた。
マッサージ屋ではセラピストにしては濃いめの化粧と自慢の身体のラインが出る施術着で仕事をしていた。
「ちょっと落ち着いた感じの、マッサージが受けられるキャバクラ」
みたいな感じを目指したんである。

得意技はタイマッサージ独特の海老ぞりストレッチでもなければセン押しでもなく、
やや膝枕調の頭マッサージと、それに伴うおしゃべりであった。

いま思い出しても、あの頃は楽しかったなあ。
別に今も楽しいけど。

胸元がすこし広く開いているシャツを着ていたので
「胸の谷間とか見えちゃいますよ」と同僚に忠告されたこともあったけれど
私はデコルテにも胸の谷間にも自信があるので
別にたまに偶然お客さんに見えちゃうくらいなら全然、気にしなかった。
勿論、あえて見せているわけではないし、
見せていると思われると変な客がついて面倒なことになるので
見せている、と思われないように注意はしていたけども。
しあわせな不意の偶然で相手が少しでも癒されてくれるなら、
それにこしたことはない、と当時癒しセラピストだった私は思っていたのだ。

そんな風に4年間、私は勤め先で楽しみながら癒しを提供するために働いてきたのだが、
それで本当にお客さんたちが癒されていたどうかはわからない。

というか、実際お客さんが癒されていたかどうかなんて
本当はどうでもいいことなのかもしれない。

癒しなんてモノはただ他人から提供されるものではないし、
「癒してあげたい」なんて思ってしまう事自体がそもそもおカド違いなのだ。


神経の緊張状態が続く事の多い今の世の中では、
単に「ホッ」と精神や身体の力が抜けること自体を「癒し」と
呼ぶことが多い気がするけども

私はそれよりもさらに、
その安らぎの中に喜びがあり、その喜びを通じて、
本当はとても強い、自分の精神や肉体の在り方を知るということが
本当の癒しということではないかと、そんなふうに思っている。

それは多分、「自己肯定」の感覚にとても近い。

頑張っている自分を認めてくれる、自分の身体に触れる手。
自分の好きな人が、近くにいるという喜び。

私は「癒し」という言葉が嫌いなくせに、
「癒し」にずっとこだわり続けてきた。

多分それは、
ここ十数年で社会現象にまでなった「癒し」とはまた全く別の「癒し」のようなものを、
私は今までに何度も色々な人から受け取り続けてきたという実感があったからだと思う。

友人や恋人や家族から、

そして自分の好きな仕事や音楽や色彩や食べ物から。

だけどそれは多分、媒介にすぎない。

自分の尊さと強さに何かを通じて出会えたとき、
他でもない自分自身が、自身の癒しの担い手となれるのだと思う。

自分自身と向き合いながらも疲れた自分の、
血や肉になれるのだと思う。










2013/01/05

馬鹿


年末にひとり香川のおばあちゃんちから送られてきた讃岐うどんを食べている最中に、
ものすごいことを確信してしまった。

確信というのはいつも何の根拠も前触れも無く、
いきなりすとんと自分の胸の底におちてきて、
まるであたかもそこが以前からの定位置であったかのように
居座ってしまうから不思議だ。

「一体、なにを確信したの。」

例によって親友の三神おじいちゃんにその話をした。

「なにって、恥ずかしくて決して人には言えないようなことですよ。」

実際、私が確信したことというのは、
とても馬鹿というか他人が聞いたら「は?なに言ってんだこいつ」と
呆れられても仕方が無いような、そんなことだ。
しかも、確信して納得しているのはあくまで私だけであり、
他人からみればその確信には客観的に根拠も無ければ理屈も通らない。
だからどうせ馬鹿にされるだけだからあまり人には話さない方がいいと思っていたのだけれど、
この根っから常識や一般の範囲外に生きている三神おじいちゃんになら話してもいいような、
そのときはそんな気がしたのだ。


「本当にお恥ずかしい話で恐縮ですが。」


「うん。」


「・・・私は今現在も美人だし、これから先も死ぬまでずっと美人で綺麗な女だという確信を、
 先日、得てしまいました。」



・・・よく考えたら
こんなに前向きで幸せな確信になぜ恐縮せねばならないのかが不思議である。
だけど、こんなに自信家で、ある意味無神経な私でさえこの変わり者の三神氏以外に
この確信を伝えるのは気が引けるのも、ある意味では事実。

「綺麗って言っても、勿論今までだって自分が綺麗だっていう自信はあったんですよ。
だけど世の中の大多数の女性がそうであるように、その自信はあくまで『たとえ世間から見て全ての人がそう思ってはくれなかったとしても、自分は自分を綺麗だと思っている。』という範疇の自信なんです。自分という人間を肯定することで持てる自信のようなものですよね。それはそれでいいんですよ。だけど、今回の私の確信は『自分でも綺麗だという自信があるし、他人から見たって綺麗に見えないわけが無い。』という、なんともずうずうしい確信のことなんですよ。」

多分、女は自分の美醜に関しては、常に100%は自分自身を肯定できずにいる。

だってたとえ自分では「私は綺麗」と自信を持っていても、
もし誰かから「え?ブスじゃん」と言われたら、
やっぱりその人は100%美人とは言えないからである。

美醜の問題が永遠に女のテーマになるのはそのためだと思う。
主観にも客観にもどちらにも偏ることができない。
美しさの価値観は本当に多様で人に寄って異なり、
単純に顔のパーツのバランスから美的センス、
精神性に至るまで美しさの基準は多岐にわたる。
そして美しさというのはその完全な複合体であるから本当は比べることすらも難しい。
だから比べることをやめられない人たちは死ぬまで自分の綺麗さを認められず、
また比べる事をやめてしまった人たちは「自分だけの綺麗」という自己満足に落ち着く。
どちらが良い悪いということじゃない。
みんな、自分が納得いく「綺麗」を探しているだけなのだと思う。

そうかんがえると、私の今回の確信は徹底的な自己満足とも言えるのかもね。

「なんてゆーんですかね。まあ確信ってゆーのは理屈じゃ説明できない部分もあるとは思うんですけど、簡単に言えば、私は昔から自分が綺麗だと思うものは他人が見ても綺麗に違いないという傲慢なまでの自信があるんですよ。そして私は今まで自分が好きだ、綺麗だと思うものはたとえそれが自分を傷つけるものであっても全て肯定して生きてきたし、醜い、嫌いだと思うものはその嫌いだと思う自分を受け入れて生きてきた、自分の尊い価値観を自分の汚い部分や弱い部分でねじ曲げることのないように生きてきた、そしてこれからもそうやって生きて行こうと思っている、そんな心の底から、身体の芯から綺麗な私が、今もこれからも綺麗でないわけがない、という確固たる自信のようなものなんですけどね。」

三神氏に話してみて思ったが、
意外とこの確信には根拠も理由もあるのかもしれない。
ただ、それを人が理解してくれるかどうかは、わからないけれど。

わかってくれるかなあ、なんて思いながらしゃべってたら、
三神さんがおもむろに頷いた。



「・・・わっかるなあ〜〜〜!! 俺もさ、自分のことかっこいいな〜〜!!って、
 よく思うもん!」


・・・え!!

そうなの・・・!?


「俺なんかさ、七十過ぎても金もあるし、彼女もいるし、この歳になっても若い綺麗な女とこうやって会ったりできてるわけじゃん。体力あるからゴルフも人並み以上に成績だせて楽しいし、こんな風に生きてきた俺って、かっこいいっていつも思ってるよ。」

た、たしかに三神さんは自身で築きあげてきた大きな財力を持ち、
その歳で私より若い可愛い彼女もいるし、女友達も数人いて、
しかも私も含めその女たちにおもしろがられて慕われている。
年に数回ゴルフ旅行で国内外に飛び、時に現地の女たちと戯れゴルフを楽しんでいる。
そんな満足いく今の自分自身を作ってきたのが他でもない自分が決めた生き方だったからこそ、
彼は今の自分を誇るんだろう。

そんな彼の自信を否定する理由なんて、どこにもない。

「・・・三神さん、私たちって、性格とか多分全然違うけど、
 根本的なところでどこか共通するところがあるよね・・・。」

「うん、そうかもな〜〜〜。だけどさ、こんなこと、ゼッタイ人になんか言えないよな!
 人に言ったら『なーに馬鹿な事言ってんだこいつ!』って馬鹿にされちゃうよ。」


そうだよね・・・。

でもさ、話せたら楽しいのにね。
自分を信じていて、自分を愛してる人間は他人の馬鹿な確信を慕いこそすれ笑いはしない。
そんな友人が近くにいることも、私の自信のひとつだ。

年末に馬鹿ふたり、馬鹿話に花を咲かせるしあわせ。

どうせ馬鹿だと思われるんなら、こんな馬鹿だと思われたい。

こんな自分を否定する理由なんて、
だってひとつも無いじゃないね?








2013/01/01

2013


あけましておめでとうございます。

去年、夏に買い替えたiphoneのカメラの性能がなかなかに良く、
最近はめっきりカメラを持ち歩かなくなってしまいました。

条件にも寄るけど、大体、キレイに撮れるんだよなあ。

年末に類い稀なる美女に手渡された紅い花たちは
なんとも賑やかで誇らしげで年の初めに相応しい。

今年も、様々な美しいものに出会えますように。
楽しく過ごせますように。

今年も宜しくお願いします。

愛をこめて。