2011/08/28

あなたがそう望むなら



いま、NHKの番組で
もともと日本人の大工だった人がイヌイットの生活に魅せられて
猟師になって自分もイヌイットになっちゃったという


・・・そんな番組をやってますが


なんか おもしろいなー。


そりゃ そうだよな。


だれだって、なんになったっていいんですよ。


そんなことよくわかってるつもりだったけど


だれだって、


なんにでもなれるとはいえないけど、


なにになったって、いいんですよね。



2011/08/19

緑を食べる



敬愛する伊丹十三のエッセイを読んでいたら、
マエダが長年漠然と感じつづけていたことが書かれていて、ちょっと感動しました。




「レタスは、美味しくない。」




・・っていう、ただそれだけのことですが。
多分、今このブログを読んでくださっている方々の大半が、はあ?って感じだと思うのですが、
だって、レタスに美味しいもまずいもないでしょ?って感じですよね?
だがしかしですね、レタスとは言っても、あの一般的によくスーパーとかで売っている、
あの丸いレタスのことです。
決して、サニーレタスなどの葉レタスのことではなく、キャベツ状の、あの丸いぱりぱりしたレタスです。


私、昔から、なーんか、あのレタスが入ったサラダが嫌いなんですよ。
サラダじゃなければいいんですが。


だって、サラダだと、ぱりぱり水っぽくて、味が全くしないじゃないですか。


あのレタスの上に、さらにキュウリとか入っちゃったりすると、
大した味の無い二大野菜が雁首揃えて何の主張も無くドレッシングの味に染まりきるわけですよね?


なんか・・・ なんか、嫌いだったんです。


だけど・・・この伊丹十三のエッセイ読んで、再び 納得!


やっぱり、サラダにはあのレタスじゃだめなんだよ!
サニーレタスとかサラダ菜はいいんだけどね!
以下、伊丹氏 曰く・・


「あんなものは、レタスでもなんでもない。
 あれは人造野菜だと思っている。実に個性の無い、興味索然たる味わいの葉っぱではないか。
 ほんとうのレタスは、やはり緑色でなくてはかなうまい。
 そうして、緑色の野菜というものは、必ず特有のほろ苦さや、辛さや、軽い渋みや、
 ひりっとした香りを持つものであって、だからこそサラダというものは生き生きした食べ物なのだ。」




特有の、ほろ苦さ・・・




そう!


そうなんですよ。


緑の野菜のみずみずしさとほろ苦さを味わうのが、正しいサラダの有り様だと思うのです。


ということで、


今日はクレソンのサラダを作ってみました。


クレソンとサニーレタスとサラダ菜をちぎってバサバサ和えるだけ。
クレソンは多い方がいい、主役はクレソン!
国分寺駅ビル地下でしっかりした美味しそうなクレソン一束百円。
これから電車に乗るのに野菜各種、思わず購入。
国分寺丸井の生鮮品売り場はなんでも新鮮で見てて気持ちいいですねえ。


ドレッシングはマエダが小学校の家庭科の授業で習ったフレンチドレッシングの作り方で充分。
オリーブオイルと酢と塩と胡椒。結局これが一番美味しい。
でも、酢をレモン汁に変えるともっと美味しい。
で、そこにちょっと酢を効かせる。
で、クレソンのサラダの場合は細かーく刻んだニンニクとほんの少量の砂糖を入れると、
一気に味に深さがでてまた美味しい。


クレソンでなく香り野菜でパセリを使うなら、
大量のパセリを細かくみじん切りにして、緑の野菜に和えるだけでもかなり良い香りで、美味しい。


あと、これは個人的な趣味ですが、
緑のサラダは、緑一色が、いちばん、美しい。


それをステンレスのボウルでそのまま でん!と出すもよし、
白い器も緑が映えて綺麗かもね。
今日のマエダ家は大きな薄いブルーの和食器に丈を出して盛ってみました。
とにかく緑一色だと何に盛ってもなんか清々しくて綺麗です。


赤いトマトとか、イヤなの!
トマトはトマトだけで、玉葱とかのドレッシングで食べるのがいい。
トマトって葉ものとは合わない気がするんです。食感とか。


一見、緑一色のサラダ。でもね、よく見ると色んな緑のグラデーションになってるんだよ!
緑の中にサニーレタスの渋い赤色とか、そのくらいが、いい。


あっ でも ミニトマトが半分に割られて和えられてるのもちょっとカワイイけどね。


















 







2011/08/06



この前のブログを書いてたとき。ウチのベランダから母の声・・・


「ナツコっ。見てっ!またっ。」


ガラス戸を開けて見てみると、




わっ。




また、玉虫です! 私の部屋の前に、今度は生きてるヤツ!


こないだに続いて二度目の玉虫!




「ナツコ あなた、玉虫が二回も来るなんて、何かいいことあるんじゃないの!
 福がやってくるんじゃないの!」






確かに、こんなギラギラ瞬いてる虫なだけに、なんか縁起がいい感じがします。
なんでもいいからなんかおもしろいこと運んで来てくれるかなあ。



「ナツコ、あなた、福がやってきたら半分ちょうだいね!教えてあげたんだから!」



・・・


母・・・

そういうのってなんていうんでしたっけ?

捕らぬ狸の?

絵に描いたなんとか?

















2011/08/04

失恋のはなし


「彼氏と別れた。辛くて何もやる気しないっ。仕事もしたくないっ。」


・・って言ってホントに仕事を休んでる友人、美和子ちゃん。


まあ、気持ちは分かる。


失恋って生命の危機の次に重大な緊急事態だから!
「そんな・・たかが失恋くらいで」なんて言ってる奴らは、
単純に本気で人を好きになったことが無い人たちなんだから、そんなの気にすんな!
仕事くらい休め!


・・って言ってなぐさめてあげたいところだけど、
今現在、人生における緊急事態の真っただ中にいる彼女には何言ったって聞こえないんです。
せめて落ちるとこまで落ちれば 後は昇るだけで 気も楽になるはず。
今は ほうっておくことにします。




でも、それだけ落ち込んでるってことは、それだけ好きだったってことですよ。


恋に落ちる時って、
本当にその言葉のごとく 名も知らぬ大海に いきなり突き落とされるような衝撃がありますよね。
しかも、否応もなく、理不尽に。


どっぷーーん って、いきなり落とされてみたら、


あれ?


なんかまばゆいばかりの美しい魚がいっぱいいたり、
差し込んでくるのはキラキラ光のスペクトル、
水の中で乱反射して、なんだか自分が光になった気分!
ああ、こんな世界があったのか!!みたいな
外から見てるだけじゃ分からなかったこの世のものとは思えない輝かしい世界が広がっているわけですよ。
たまにクジラとか遭遇しちゃったりしてね。
もう、ナチュラルハイの極みです。


まあそして時には荒波に揉まれたり 岩場に叩き付けられたり、
思いがけなくクジラに食べられちゃったりするわけです。


否応も無く。


結局、恋に落ちるって、全てが理不尽。


始まりから終わりまで、結局は自分の一存ではどうにもならないことばかり。


全てが想定外で、自分の範疇を超えているんです。


そんな、すごい力に翻弄されているわけだから、
そりゃあ 落ち込まないわけないんですよ。


失恋って、「アイデンティティ・クライシス(自己喪失)」なんですよ。


「自分」という存在を定義づけるものを失うことで、
築き上げて来た「自分」という存在が、一度そこでバーンと崩壊しちゃうんですよね。


粉々に崩壊した自分を、立ち直るためにまた一から組み直していくわけですから、
そりゃあ 痛手が大きければ大きいほど、修復作業も困難を極めるわけで。


修復作業中は、人にもよりますが、黙々と作業に耽るに限ります。


自分が落下した美しくある時には恐ろしい大海を心で反芻しつつ、


そんな大海原を泳ぎきった己の精神と肉体を 褒め 愛でながら、


もうちょっと時間が経てば、そんな美しい海を知った、美しい自分の存在に、気づくはず。


それが理不尽であればあるほど、美しい経験になるはずです。


こういっちゃあなんですが、


意外とこういう経験をして無い人って多いんですよ。
やろうと思ってできることじゃないですから。


してる人だって、多分人生で一回か二回か、せいぜい三回ですよ。
それ以上は身体が持たない気がする・・。


まあ、「もう一回くらい、クライシスしてもいいかな。」


・・なんて なかなか 私も 言えないですけどね。


























 



















2011/08/02

Nike in Greece

「ゆうきちゃん」という、妙な絆で結ばれた友人がいます。


この ゆうきちゃん、実はマエダが学生時代に共にSMの「縛り」の授業を受けた仲間なんです。


・・・なんて書くと、ちょっと妖しい感じがしますがコレ、実話です。


私が通ってた美術学校の西洋版画史の岩本先生(男)。
この先生がちょっと変わった先生で、授業中にSMの授業をするんですよ。


たしか最初の授業で生徒同士が二人一組になって、手錠を掛け合うんですね。
その後に簡単なチェック式のSM診断テストみたいなのをして、結果を先生が見るんですが、
他にもそんなにきわどくないSMのビデオを見せられたりとか、いま 思い出してみると
「よく先生、授業であんなことやったな〜〜」とちょっと感心するようなことばかり。


勿論、生徒からは猛烈に非難されて、授業を拒否する生徒もいましたし、
おそらく先生たちや学校の運営側の方でも問題にはなっていたようです。(そりゃ当然ですが・・)


そんな中、なぜか進んでその岩本先生のSM授業を受けていたのが、
この私と、ゆうきちゃん。


主に授業後の時間や授業中に二人だけ別プログラムでSM授業。


主に「縛り」に興味を示したゆうきちゃんは縄の縛り方とか縛られ方を教わっていましたが、
なぜか私はめっぽう縛られ役で、最初の手錠から始まり後ろ手に縄で上半身を着衣の上から縛られて授業中一番後ろの席で放置プレイとか、日によっては足枷とか、縛られてる自分をビデオに撮って見せられたりとか、なんか・・今思い返してみるとすごいなあ。


麻縄での縛りとか緊縛絵師の伊藤晴雨の話とかそういう日本的なSMの授業もあったけど、
基本的にこの先生はボンテージ系だったらしく、
外人の拘束された女の人が馬が繋がれるとこにただ繋がれてぐるぐる歩いてる映像とか
を見させられて、感想を求められたりもしたなあ。


最後の授業の時には、個人的に俺に縛られないかとのお誘いを受けたけど、
そこまでいくと自分の身が自分で守れるかわからなかったので、丁重にお断りしました。


ただ、全然イヤじゃなかったんですよ。


多分私の中に、SMの予備知識が全く無かったということもあるとは思うのですが、
昔から漠然と私の中では「自分の欲求に忠実な人」というのは、信用できるんですね。
この岩本先生、多分翌年解雇されちゃったし学校的にはダメな人なんだけど、
ホントにSMが好き!!って感じの超ストレートな人だったから。
そういう人とどういう形でもかかわれるということは、
意外と当時の私にとっては楽しいことだったのかもしれません。


後々、コレを機に 立派に真性のMの素質が花開いたゆうきちゃん。


私も自分がSかM、どちらに傾倒するか期待したんですけどね〜〜。


その後、数年の月日を経て、自分はSでもMでも無くノーマルだと泣く泣く認めました。
ごめんね岩本先生・・・


今ではこのゆうきちゃんには年に一度くらいしか会う機会がないのですが、
開花してからの彼女はいつも泣いたり笑ったり、
盛りだくさんの人生を最大限謳歌してるように見えます。


自分の欲求に忠実な人というのは、常に切実さと自分に対しての真摯さがあって、
常に崖っぷちに立っているかのような危うさがありながらも、
そこにはいつでも貪欲な生命力が見え隠れするのです。


そういうものがきっと「色気」と呼ばれるんだと、私は思っています。