2016/12/26

幸福



もう十年以上前に別れた男の、消息を知る機会があった。

 当時は独身だったその男も結婚して、子供も生まれて、いわゆる世間一般でいう幸せな家庭を築いているようで、私はそれを聞いたとき、なんというか心の底から一点の曇りもなく、「よかった」と思って嬉しくなった。


 余計なお世話かもしれないが、彼も、その奥さんも、今もこれからも幸せでいてほしいと思った。
 本当に余計なお世話かもしれないが、女に依存的に執着するあの男の浮気性が影を潜めているか、もしくは奥さんがそれを許容してくれていることを切に願った。
ていうかどちらにしても穏やかに不幸がなく暮らしてくれてるなら嬉しかった。


そんな風に、昔の男の幸せを喜んだ瞬間、当時死ぬほど好きだったその男に対する興味が、一切、自分の中から消えていることに気がついた。


 心の底から男の幸せを喜びながら、心の全部で「どーでもいい」と思っていた。



・・・そうか。
 私が好きな男の幸せを願えるのは、その男に興味がなくなった時なんだな。
と、なんだか漠然と思ってしまった。



*****

たまに、何人もM女を抱えるSMのS男や婚外恋愛を推奨する男がよく使う言葉に、「相手の幸せを喜ぶ」というようなものがある。
どちらも複数の女性と関係することを良しとする立場の男性が、自分と関係する女性が他の男と付き合いだしたり結婚したりした時に、反対したり嫉妬したりせずにその女性の門出を祝福してあげる、というようなニュアンスでそのような言葉を使う。
 

正直、私はその言葉の意味が、実感としてはさっぱりわからない。
 

実感としてはわからないが、もちろん男という生物の生理ということで考えれば、理解はできる。
複数の女性と関係することをオスの基本だとする男にしてみれば、いちいち関係した全ての女を独占したところで面倒なだけだし、その男たちが築こうとするある意味での秩序が成り立たなくなるし、関係するすべての女達の希望に応えられるわけではないから、そういう意味では女たちの幸せも奪いかねない。
だから、その「相手の幸せを喜ぶ」というスタンスは、そういう男たちの女と関わる上での策というか美徳のようなものではないかと想像する。


ていうか、実際私がこの言葉を聞いたのは主に男性からだけだったのだが、女性でも同じようなスタンスで男と関わる人っているんだろうか?
まあ勿論、世の中にはそんなお人もいるんだろうが、そんな女性がいるとしたら、私と彼女はもう同じ女とはいえ身体の組成からして違うような気がしてしまう。

それくらい、その言葉は私にとって意味を成さないもんなんだ。


勿論、私だって人の幸せは願う。
 

大事な友達や家族は近くにいてもいなくても、健やかに笑っていて欲しいと切に思う。
 周りが幸せでいてくれないと自分が幸せでいられないことは身に染みてわかっているので、できることなら自分に関わる全ての人に不幸が無いよう願っているし、特に二年前に生まれた甥っ子とその家族に関しては、自分を含め他の誰が不幸になってもいいからその子だけは絶対に幸せに生きてほしいとその2歳児の笑顔を見るたびにエゴイスティックに願ってしまう。



だけど、好きな男は別なんだよね。

私は、好きで好きで仕方がないくらい好きな男の幸せを願ったことは、
ただの一度も無い。


ちょっと好きな男や、仲のいい男友達の幸せならいくらでも願える。
 彼らがもし求めてくれるなら、私にできることならしてあげたいと思う。まあ、とは言っても大体いつもお世話になるのは私の方で、私が彼らにしてあげられることなんて多くはないのだけれど、なんというか、そんな風に建設的に幸せというものを考えられる。



だけど、本当に好きな男に関しては、無理なんだよな。

私は、恋愛感情というものは独占欲と同義だと思っている。
 独占欲に、性欲が絡んだものが恋愛だと思っている。

もしかしたら、そうではないもっと高尚な恋愛というものが世の中にはあるのかもしれないが、私には経験が無いのでわからない。
 

自分が、暫定的にであれ他のどの男よりかっこいいと思った男が、同じように女である自分を選んでくれたなら、それほどの快感なんて他のどこを探しても無いわけで、そんな「あなたが一番、だから私も一番にして」という自己肯定欲求と所有欲が性欲と合わさったらもうなんつーか、セックスが楽しくて仕方ないわけである。

「一番」てゆーか、「一番であり、唯一」かな。
おそらく私は、そんな独占欲でもってセックスを楽しんでいる。
その感覚がないと、セックスはつまらない。
まあ、無くてもできるんだけどなんとなく物足りない。
もしかしたらそこらへんの感覚は男女や個人で差があるのかもしれないけどね。


だけど、当たり前のことだけど、現実に人生を生きていると、お互いだけで必要な人間関係の全ては賄えない。

男はたまには他の女を欲しがるし、
 家族愛と性的な欲望は両立しないし、
 愛している男の世界は、私を含めた私以外のあらゆるもので成り立っている。
 私に与えられないものは、他の人間に求めるしかないこともある。
それは私も同じことで、「この人だけ」ですべて賄えることはあり得ない。


だから、生きているかぎりは、私の独占欲は永遠に満たされることはない。

 満たされたような錯覚を得るために、例えばセックスしたり結婚したりするのかもしれないが、結局人がひとりで生きていけないのと同じように、二人きりでだって生きてはいけない。

 独占欲が極まると、早く相手が死ねばいいのにと思ってしまう。
 

今もこれからも自分以外の人間と幸せでいるという想像に耐えられない。
不倫関係のモツレで女が相手の男や家族を殺してしまう事件や、殺してしまった後に男の局部を切り取って持ち歩く女の物語があったりするけれど、私にはその女たちの気持ちがよくわかる。

女である私は自分の身体を切り売りできない。
たまにあちこちから男の身体を頂くことはあるかもしれないが、自分の身体を与える先はひとつである。
たったひとつの与え先である男に対する執着が、どれほどのもんかと思うのである。


もちろん私も良識のある大人なので、今まで男を独占するために殺したり大きなトラブルを起こしたことはないし、私が本当に好きになる男は大抵、完全なる平和主義者で父性的な一面で私の退廃的な欲求を受け止めつつも律してくれるので、「死ねばいいのに」という欲求は今のところ幸いにも現実になったことはない。
まあ、そういうのを律してくれる男を好きになるあたりが、基本的には私もバランスの取れた平和主義者なんだと思っている。



だけど、
好きでいるかぎり、いつも相手の人生が、自分と一緒にいるうちに終わって欲しいと思ってしまう。
本当に相手を独占できるときがあるとしたら、それは相手が私以外の世界と切り離されるときなのだと想像する。
それは、まぎれもなく彼にとっての不幸なのだと知ってはいても。



「相手の幸せ」


そんなこと、貴方が死んだあとにいくらでも願ってあげよう、と私は思う。

幸せを願えないセックスは楽しい。
この退廃的な独占欲が、女に生まれてきた醍醐味のような気さえする。
私にとっての男に対する愛っていうのは、呪いのようなものなのかもしれないな、と思ったりもするけれど。



 独占したいと思える男に出会えることがわたしにとっての幸運で、
 独占しあうためのセックスは快感。
そんな男と互いに独占していると錯覚しあえることが私の幸福。


相手の幸せを願えずに
私は結局なにも手に入れられないまま死ぬのかもしれないが、


それは到底 不幸と呼ぶには値しないと、私は体の全てで納得している。