2016/11/21

剥き殻




「発生学的には胎児の時に女から男がつくられるわけだけど、人間の性欲の発達としてはその逆なんだよ、っていう話をこの間、本で読んでね。」

その日は好きに喋りたい気分だった。
倉庫みたいなコンクリート張りの床のアトリエは大きなストーブをつけてるせいで冬でも妙に暖かくて、私は裸のまま薄い毛布にくるまりソファに寝ころんでいた。


横ではユキヒトがナイフで柿の皮を向いている。

「ほら、生まれる前にお腹の中で、7週目までは胎児は最初はみんな女だっていうでしょ。そこから胎児の大陰唇が綴じてクリトリスが肥大して男の子ができるわけ。言ってみれば、男は女から作られるわけだよね。だけどね、この間読んだ本でおもしろかったのは、人間の性欲の発達の仕方っていうのはその逆なんだって。産まれてきた子供は男の子も女の子もどちらも初めは男の子としての性欲を持っていて、つまり、どちらも男性器を女性器に入れたいという能動的な性欲を持っているんだけど、途中で女の子は性欲の在り方を逆転させるんだって。入れたいという能動的な性欲から、入れられたいという受動的な性欲に。」

「まあ、それは、女の子にはぺニスがないからね。」

「そうそう、勿論、無意識下の話だけどね。フロイトの、幼児性欲ってあるでしょ。人間は赤ちゃんの時から性欲があって、それが口唇期、肛門期、男根期...その後はなんだっけ?まあ、そんな感じで形を変えながらセックスへの欲求へと発達していくってやつ。その男根期のあたりの話かなと思うんだけど、大体4,5歳くらいのことだよね?女の子はその時期に、自分にはぺニスが無いってことを発見して、性欲の在り方を変えるんだって。ぺニスを膣に入れたいという能動的性欲から、膣にぺニスを入れられたいという受動的な性欲に。」


ユキヒトの手の中で、柿はくるくる優雅に弄ばれて皮を剥がれていく。
器用な男の手がナイフで果物を剥く様はとてもセクシーだなと思いながら、私は喋り続ける。



「・・・てことはさ、男の子は自然と男の子になれるけど、女の子は、男の子になるつもりだったのに無理だとわかって女の子になることにした、ってことでしょ。私、その感覚ってすごくよくわかるんだよね。別に、私は本当は男の子になりたかったのに、て話じゃないよ。私はある日突然、女の子だってことに気付いて、そこから自分の色々なものを方向転換させてきた、って話。だけど、私に限っては、それはいわゆるジェンダーのような「女はこうあるべき」という社会規範や概念のこととは全く無縁の話でね。たとえば親に「あなたは女の子なんだから」とか言われて、気付かされたわけじゃないのよ、ある日突然、自分にはぺニスがないんだ、って気付いただけなの。それは初潮がくる何年も前の話だから、私がそういう風に自分を女の子だって自覚したのは生理の有無じゃなくて、ぺニスが無いってことだったって、そういう話なんだけどね。」


ユキヒトの手の中で柿が素直にふたつに割れた。
いる?と差し出されたけど、私は基本的には柿が嫌いだ。
柿、好きなの?と私が聞いたら、うん、子供の頃に庭になっててね、ノスタルジーみたいなもんかもね、と、言ってユキヒトは笑った。


柿を剥く指とその暖かい石油ストーブの匂いのするアトリエの空気が心地よくて、私はこれからは柿が好きになるだろうと思った。私の好き嫌いなんて、その程度のもんなんだ。



「でね、結構はっきりと覚えているんだけど、私は精神的には、5、6才の時に女の子になるってことを始めて、12才の時に完全に女の子になったの。私の初潮は10才だから、それもやっぱり肉体的な生理とはまた別の話。私は12才の時にはもう大体、異性としての男っていう生き物の生理がわかっていたし、男の性的な欲求にどう対処すればいいのかはわかっていたわけ、それは多分その女の子になる過程で、たくさんの変質者とか幼児性愛者にモテてたせいもあると思うんだけど、そう、それはそれはよくモテてね、一度、誘拐されかけたこともあるし、下校中に後をつけられたり、電話をかけてきて卑猥な話を永遠と聞かされたり、建物の影につれてかれて裸にされたこともある。一度、私を羽交い締めにして物陰で服を脱がそうとした男と同じ顔の男が、ある日テレビに出ててびっくりしたことがあってね。そのテレビに出ててた男は隣街で幼女の誘拐殺人事件の犯人として捕まってて、何年かあとに死刑になったけどね、まあとにかくそういう変な男にすごく好かれてたわけだよ。そういう目に何度もあってるとね、どういう時に男が興奮するのか、自分のなにが男の興味をそそるのか、子供ながらにわかってくるものなんだよ。それは結果的にその後も自分を性的な被害から身を守る術になったし、幸い私はとても自己肯定感の強い子供だったから、その経験がトラウマになるってことは、なかったんだけどね。だから別にこれは、私の不幸な幼少時代の話では全くないのだけど、むしろ、それは私の人生に置いてとても良い経験だったわけなんだけど、それは、わかってもらえる?」


わかるよ、という目でユキヒトが私を見た。


「まあそんなわけで、結局私は自分が最初から女の子だったわけじゃなくて、まるで段々に女の子になっていった過程を結構明瞭に覚えているわけ。で、もしそんな風に全ての女の子が、最初から女の子だったわけじゃなく、女の子になっていく、のだとしたら、女の子の性欲の形成の仕方はとても複雑なものになるわけで、だって、もともと男根を膣に入れるという能動的な性欲を受動的な性欲に逆転させるわけでしょ、しかもその逆転は男になれなかった挫折感、劣等感、方向転換せざるを得なかった屈辱感が多かれ少なかれ伴うから多くの場合は順調にはいかないんだよ、まあ、その順調にいく程度というか、うまくいかない程度にも個人差があるわけだし、さらに、そこにはその時の時代や文化の影響も受けるわけだよね。だから、結果的に女の子の性欲っていうのは多様で複雑ですごく個人差が大きいわけ。よく女の性欲が無いと言われたり複雑だとかよくわからないとか言われるのは、もしかしたらそのせいじゃないかとも、思うんだよね。」

「うん」

「私が12才の時にはっきりと思ったのは、女の子としての私は、男の性欲というものの攻撃性や支配欲の対象であること、虐げられたり侮辱の対象であること。もちろん、それは男の人の人柄とか精神性の話じゃなくてね、男の性欲の基盤がそういうものだってことでね。ほら、よく言うでしょ。男の人には根本的に根深い女性恐怖がある、って。それが、男の支配欲と根本で結びついてるって。」

「ああ、それ、なんか覚えてるな。それたしか前に俺があなたに貸した本だよね?うん、なんか覚えてるよ。その、男の女性恐怖っていうのはさ、乳児期っていう自分が徹底的に弱い赤ちゃんの時に、異性である母親に育てられていたってことから発している、ってことだよね。男が女を支配したがるのは、その母親の支配からの脱却のための過程、っていうか、そういうことだよね。」

「そうそう、男の子の中では、自分が庇護されてる時の母親は全知全能の神のような存在なわけだし、そして庇護されてる時の自分自身はまだ赤ん坊で全くの不能だし、女を支配しないことには、男の人は自分の不能状態から抜けられないんだって。勿論それは、無意識下の話なんだけど。そういう話聞いてさ、男の人って、ああもしかしたらそうかもなあ、とか思ったりするの?」

私が聞いたら、ユキヒトは少し笑って、わからない、と答えた。

「まあ、そうだよね。誰も、乳児期の記憶なんてないしね。だけど、そう考えると、いままで不思議だったことが、よくわかるような気がするんだよ。なんで、女の身体が商品になるのと同じように、男の身体は商品になりにくいのか、とか、なんで男の身体や性器は視覚的に女を興奮させにくいのか、私は初めて男と寝るまでは性的な妄想の対象が女性のヌードだったんだけど、それはなんでなのかとか、ね。」

「ああ、女体が女の性的対象になるっていうのはさ、結局は女の子の能動的性欲から受動的性欲への逆転が、かならずしも完遂されないってことだよな。女の中にも、きっと代わり切れなかった能動的性欲が残るんだろうな。だから、女の性欲は男ほど単純じゃないんだろう。曖昧ていうか、複雑なんだよ。それは同性愛とはまた違うと思うけどね。」
  
「・・・そう、で、話が戻るけどね、私はさ、その12歳の時にはね、男の性欲の基盤には攻撃性や支配欲があって、だけどそれを受け入れない女に、男は欲情しないってことも同時にわかってたの。つまり、男の攻撃性に対して怖がったり逃げたりしない女を、逆に男は嫌がるし興味を無くすし、ある時は恐がるのよ、それがわかってから、私は全く男が怖くなくなったの。不思議なんだけど、それと同時に、そういう性的な被害に合うことも全くと言っていいほど無くなったんだけどね。」



ユキヒトは黙ったまま、私が寝転んでる黒いソファに腰を掛けた。
その黒い革張りのソファはいつも私たちのベッド代わりにされてるせいで、もうスプリングも壊れて革も破れてクタクタになってしまっていた。


それでも妙に寝心地がよくて、愛着が湧き、結局 別れるまでの数年間はボロボロのまま使い続けていたが、そのボロボロのソファはユキヒトのその質実なアトリエによく似合っていて、そのとき彼が手にしていたナイフや柿や指と同じように、心地よく美しかった。


「だから、私は基本的に12才の時から男の性欲の在り方を否定してるし、支配欲と攻撃性に裏打ちされたすべての男の性的な妄想に付き合う気は全くないの。だって、それは多かれ少なかれ自分に屈辱感を与えるからね、私の自尊心と男の性欲はどうやったって両立しないのよ。だけど、すべての男のそれを否定してたら恋愛もセックスもできないわけで、どうしようもないでしょ。だから、私は自分が好きになった男の性欲だけは、受け入れてあげようと思ってるの。だから私は自分の自尊心をすり減らしながら、好きな男を愛していて、自分を消費しながら、好きな男とセックスをしてるの。それはもちろん、その男のためじゃなくて、私自身のためなんだけどね。」


コンクリートの床には、切れ目なく渦巻き状に剥かれた柿の皮が落ちている。

器用な男の指で、綺麗に剥かれた果物の皮は無理が無く美しくて、
羨ましくなるくらいに、幸せそうだと思った。