2012/11/26

錯覚

Santorini


テレビでイヌイットの狩りを見てから、

彼らが食べていたアザラシの内臓を私も食べてみたくて仕方が無い。

白い氷の大地の上で、
イヌイットの男性が自ら撃ってしとめた直後のアザラシの白い腹をナイフで縦に裂き
「ここが一番美味しいんだ」
と小さな赤い内臓のかけらを指で摘み出し、そのまま口に放り込んでいた。

まだ温かい血の味が、
テレビの前の私の口の中にも広がるような、そんな錯覚があった。

「アザラシはともかくさ、イードっていうイスラムのお祭りの時に
 パキスタン人のとこにいくと日本でもヤギとか屠ってるから、
 解体後の肉をその場で食べられるよ。」

そう言う彼女は名古屋の友人、ケーコさん。

えっ そうなんですか?

日本では解体業者以外は屠殺NGだと思ってました。
狩ったアザラシと家畜のヤギだとちょっと感じは違いますけど、
それはそれで興味はあるなあ。

「そのヤギって、ナマ食OK?」

「パキスタンで見た時は、切り出された肉や内臓を女性たちがその場で切り分けながら
 時々ナマのままでつまみ食いしてたから、ナマでも別にいいんじゃない?
 日本では、さすがに一家に一頭、ってわけにはいかないけど
 たいてい地域のパキスタン人が集まって屠ってるよ。」


し、知らなかった・・・。


なんだかとりあえずカナダとかグリーンランドとかにイヌイット目がけて飛ぶ前に
日本でイスラム文化を堪能するのも悪く無いような気がしてきた。
とりあえず解体直後の生肉にもお目にかかれるようだし。

しかし 友よ・・・

アナタは確かご主人がインドだかパキスタンの方だから
そのような方々が周りにいらっしゃるのだと思うのだが、
私のような一般の日本人にはなかなかパキスタンの方との交流はないのですよ。
まずはどこでパキスタン人と巡り会えるのかというのが最初の課題ですね。

「東京ジャーミィとかで訊いたら、わかるかもね。」

・・・東京ジャーミィ?

インターネットで検索したら「トルコ文化センター」のHPが出てきました。
あ、代々木上原にあるんだ。
てゆーか、名古屋在住のあなたがなぜそこまで知っている?

「あ、それとね、牛やヤギは最初に首を切るんだけど、
 家の男がやってくれることもあれば屠殺専門の人を呼ぶ事もあるんだよね。」

へ、へえ〜〜。
それはパキスタンの話ですか?
実はこの会話、ツイッター上でしていたものなので
詳細はところどころ不明瞭であり不明です。

「でさ、私は屠殺専門の人が回ってくるのを見た事があるけど、
 何軒も回ってくるのでその専門の人の服は血まみれだし、
 首に刃を入れる前に二つのでかい曲刃みたいなのをショインショインと
 ハイスピードで擦り合せたりしてて、
 なんか北斗の拳に出てきた拳王親衛隊を思い起こさせたよ。」


・・・



・・・ショインショイン。


なんだか最初の、
アザラシの内臓からしたたる血の味への欲求はもとより
今はこの聴いた事も無いショインショイン・・の音も妙に私の脳みそに残る。

食べた事の無いアザラシの血の味の錯覚と、
聴いた事も無い屠殺業者の曲刃の音。

実際には知らない、 錯覚したものを求めるっていうのも、へんな話だよな。

アザラシの血が本当はどんな味がするかなんて、

わからないのにね。




2012/11/19

夢の中


怖い夢をみた。


他人の夢の話ほど聞いていて退屈なものは無いと知りつつ、
なんとなく人に聞いて欲しくて
男友達のケイちゃんに私が見たその怖い夢の話をした。

「簡単に言えばさ、単に妹が自殺する夢なんだよ。
 だけど夢の中の妹は現実の妹とは違う感じだったから、
 多分妹という設定の別の人間なんだと思うんだけど。
 その妹がさ、マンションの十階くらいの高さから飛び降りるんだよね。
 飛び降りて、地面に叩き付けられて手脚や背骨は有り得ない方向に折れ曲がってるし
 頭はひしゃげてるしで血だらけの瀕死の状態なわけだけど。
 そんな瀕死の状態にも関わらず彼女は血だらけで近くの電車の線路まで
 肘をつかって這っていって、線路のうえにごろんと仰向けで寝っころがるんだよ。
 飛び降りて自殺を図った上に、仕上げに電車にまで跳ねられようって感じよ。
 電車が近づいてきてあと数秒で電車に敷かれてバラバラになっちゃうぞって時に、
 彼女は携帯電話で自分の母親に電話をかけるの。
 「今から、電車に敷かれて死にますから。」って。」

夢の中で、私はその状況をを遠くから眺めているわけなのだけど
電話を受けて駆けつけた母親が電車に敷かれてバラバラになった娘の身体と対面する様を
「あ〜あ・・・。可哀想になあ」とやけに俯瞰して見ていた。

夢は精神の健康状態を表すと常々思っているので
強烈な印象を残す夢を見た時は一応気にかけているのだけれど

今回の夢は本当に、いやーな感じだったなあ。

「妹っていうか、その自殺したのは間違いなくナツコだろ。
 もうひとりのおまえってゆうか、
 おまえが普段意識してない自分の願望を夢の中で妹っていう存在に託してるんだよ。」


うん。いやそれはなんとなくわかってはいるけどね・・・。


いやな夢っていうのは何かこう自分を振り返らなきゃいけないような
変な課題を提示されてるような気分になっちゃって、嫌なもんだね。

私は人が死ぬ夢をよく見る。

だけど自分が死ぬ夢は多分もっとたくさん見ている。

だけど自分が死ぬ夢ってゆーのは
自分が生まれ変わりたいという願望の現れというから
むしろそんな夢をみても嫌な気分になることはあまり無いのだけれど
今回の夢はちょっとイヤだ。

多分、悪意のようなものが含まれているからだと思う。

自分が死にたくて死ぬのは別にいいんだ。
だけど、それを事前に母親に伝えるという悪意が私の気分を悪くする。

夢の中の自殺した彼女は、明らかに悪意を持って母親に自殺を告げていた。
電車にひき殺されてバラバラになった自分を見せてやりたいという、悪意。

自分が死にたい理由も原因も、あるとしたら自分の中にしか、無い。
だけど死ぬ直前に母親に自殺予告をするという行為は、
その理由や原因に母親を巻き込む行為だ。
それを母親や他人のせいにするのは愚かな意味での甘えだと思う。
死ぬなら一人で自分を敷く電車を待てばいい。
呪いをかけるように、母に自殺予告なんかせずに。

他人に呪いをかける弱さが自分にあることを知る。
潜在意識が支配する夢の領域だからこそ、普段は知らない自分の一面を見る。

夢というのはとても個人的な感覚で形づくられているから
他人と夢の話を共有するのは難しい。
それにも関わらず私の楽しくも無い夢の話をちゃんと聞いてくれる、
ケイちゃんの存在が有り難かった。

まあ、他人の楽しい夢の話の方が、怖い夢の話よりもつまんないししらけるんだけどね。
夢の話っていうのはそんなもんなんだよな。

「ちなみに私の今朝の夢なんだけど。」

気分を変えるために、私が今朝みた楽しい夢の話をすることにした。

「朝日が差し込む明るい部屋のベッドの上で
 誰かわかんないけど男とふたりで裸でゴロ寝してんの。
 で、私は男の足側に顔をむけて寝っころがりながら、男の足の親指を食べてんだよね。
 歯で肉を齧りながら食べてるの。
 爪の部分は硬くて食べられないんだけど、肉の部分はむしゃむしゃ食べてた。
 味はよくわかんないんだけど。
 「痛くない?」ってまだ夢うつつの寝てる男に訊いたら、
 男は軽い感じで「ん?べつに〜。」って答えてた。
 なかなか悪く無い夢だったよ。」

ケイちゃんは、間髪入れずに私の顔を見て言った。

「おまえそれ、フェラチオの夢だろ。」




・・・・



・・・う〜〜ん。


まあ、そうともいうかもね。

私が男の指を好きなのは、多分そういう意味なんだろう。

夢なんて、所詮そんなもんなんだよな。



 


2012/11/13

Istanbul

子供の頃の夢は叶うか」

というテーマで小学生が大人にインタビューをしてまわるという
とてもおもしろい番組がやっていた。
インタビュアーもコメンテーターも全て小学生、という子供だらけの番組だった。

子供の頃は宇宙飛行士が夢でしたが今は食品加工会社でサラリーマンをやってます、
というオジサンや船乗りになりたいと思っていたけど実家の老舗の豆腐屋を継ぎました、というお爺さん、サッカー選手になるのが夢だったけど今は美容師です、みたいな人まで
様々な大人が子供の頃の夢と今の職業をインタビュアーの小学生に対して語っていた。

何人かの大人に対してこの質問をし、
実際に子供の頃の夢を実現できたひとの割合を求めたところ、
ほぼ100%の割合で大人は子供の頃の夢を実現していない、という結果が出た。



なんつーか・・・


こういうテーマで子供に番組をやらせるってことが、すごいおもしろいよね。
これは「夢は叶わない」という番組ではなくて、
「夢とはなにか?」という問いや、
「夢(やりたいこと)」と自分との距離感を考える番組なんじゃないだろうか。

あ、でもそれって大人の私だからそう感じるのかな。

わかんないけどね。

ちなみに私は小学生の時は将来の夢、なんて考えたこともなかったけど
それから少し後の、中学生の頃に私がなりたかった職業は
一番は「刑務所で働く人(刑務官?)」で、二番目は「ホステス」でした。

今思えば変な中学生だよなあ。

刑務所で働く人、は多分公務員だと思うのですが、
それゆえ自分の学力の無さを痛感した時にこの夢は自然に諦めてしまいました。
この簡単に諦めちゃう感じがなんか「子供の頃の夢」っぽい。

刑務所、ではなく少年院でもいいなと思っていたのですが
どっちにしても「夢」として語るにはちょっとアレですけどねえ・・・
社会的な規範に適応できない人間に、中学生なりに通じるものがあったというか
興味が湧いていた時期だったんでしょうね。
それは今でもあまり変わっていないですけど。

刑務所がダメならホステス、と思っていたのも同じく中学生の時期でしたが
これもいつだったか自然に諦めてしまいました。

ベテランホステスの知人が一度
「マエダちゃんも一緒にやろうよ。絶対向いてるよ。」
と誘ってくれたことがあったのですが、私が酒が全く飲めない旨を伝えると
それじゃあちょっとムリかなあ・・・と渋られ、私自身も妙に納得して、
それでなんとなく諦めちゃったんだよなあ。

まあ、その「ホステスになりたい夢」に関してはその後、
酒をマッサージに変えて自分なりに実現したと思ってはいるのですが。

子供だろうと大人だろうと、
本当にやりたいことならば例えできなくても成れなくても、
求め続けてやりつづけるんだろうな。

それを夢と呼ぶかどうかは、わからないけどね。






2012/11/04

大きさ

Thai

なんでも大きけりゃいいってもんじゃ無いと思うんですよね。

目的や用途に応じて、
そのものの一番適切な大きさのバランスや形が自ずと導き出されるんだと思うんですよ。


目的に合った大きさや形が利便性や合理性を産み、
そのモノの存在意義をより強く形づくるんだと思うんです。

重要なのは単に大きさではなくて、
そのモノに期待されている任務をどれだけ期待通りに、
もしくは期待以上に遂行できるかということではないかと。

先日、国分寺駅北口にある鉄鍋餃子の店「虎萬元」に初めてお昼ゴハンを食べに行きました。
私は餃子が大好きなので「虎萬元」はずっと気になっていた店ではあったのですが
なんとなく、行きそびれていたんですよね。

店に入り、その後に控えている仕事のことなどおかまい無しに餃子の定食を注文。
ニンニクの匂いとか、実はあまり気にしたことがありません。
その店独特のものが食べたかったので「大餃子」の定食にしました。
鉄鍋餃子って手もあったんだけどなんか脂っこそうだし。
わたし胃弱だし。

大餃子っていっても、まあ普通の餃子の倍くらいの大きさであろうと、
大餃子6個ならせいぜい普通の餃子12個分程度の量であろうと、
その時は高をくくっていたのですが。

焼き時間に10分近く待たされた時点で気がつくべきでした。

「大餃子定食です。」と目の前に置かれた皿の上には
ゴロンと横たわる6個の・・・なんだろう?

・・・なんて言っていいかわかんないんですけど

イヤこの餃子を形容する言葉をいろいろ考えてはみたんですけど

とりあえず、「ゴロン」って感じなんだよね・・・。

よくでっかくてあまり機敏に動かないようなものが横たわっている様を形容する時に、
「ゴロン」って言葉を使うじゃないですか。

お腹いっぱいになって「あー眠い」とか言って「ゴロン」と横になるとか
もしくは解体前の冷凍マグロが「ゴロン」と存在する様とか
まあ、そんな感じで。

大きさ的には普通の餃子の3倍くらいじゃないかと思うのですが

そこには決して普通の餃子に見られるような
軽やかに焼き上がった皮の香ばしさとかは無く・・・

なんだか怠惰ささえも感じさせる「ゴロン」なんだよね・・。

食べてみたら別に普通に美味しいんですけど、
たしかに小麦粉の皮でみじん切りにした肉と野菜を包むという点において言えば
これは餃子に間違いないのですが

普通にいつも餃子を食べる時のように
まずは醤油と多めの酢に浸してその大餃子を食べてみても

なぜか餃子を食べている、という感じが全くしない。

大餃子に対して小さすぎやしないだろうかと思われる醤油小皿の上で
箸で二つに割られた大餃子の皮がぐんぐん酢醤油を吸い込んでゆく。

味は餃子なのに餃子を食べている気がしないなんて
いったい私は今まで何をもってして「餃子」を食べている感を感じてきたのだろうか?

たかがランチでそんな面倒なこと考えさせやがって・・・

と悪態付きながらもとりあえず大餃子6個を完食しました。
ゴハンとスープは食べきれず残しましたが。

しかしこれだけ餃子で満腹になったというのに
大好きな「餃子」を食べたという満足感が全く無いとはこれいかに・・・。

そしてその数日後に今度は吉祥寺の「一圓」でも同じような目にあったのですが
おそらくそれは私自身の「餃子」と言う言葉を聞いた時に感じる無邪気なわくわく感のせいなんでしょう。
食に対する喜びというのは、いくつになっても純粋なもんです。

「餃子」って言われるとなんでもいいから食べたくなっちゃうんですよ。
一圓の餃子はでかいって知ってたのに、ジャンボ餃子を頼んじゃったんです。
食べた後にやっぱり普通の餃子にしとけば良かったって思ったんですけど。

餃子を食べた満足感を残さない餃子は餃子としてのプライドを放棄していると思わざるをえませんね。

餃子は餃子としての役目を果たしてこそ餃子なのです。

なんでもでかい方がいいなんて、だから男の妄信なんだってば。