2012/11/04

大きさ

Thai

なんでも大きけりゃいいってもんじゃ無いと思うんですよね。

目的や用途に応じて、
そのものの一番適切な大きさのバランスや形が自ずと導き出されるんだと思うんですよ。


目的に合った大きさや形が利便性や合理性を産み、
そのモノの存在意義をより強く形づくるんだと思うんです。

重要なのは単に大きさではなくて、
そのモノに期待されている任務をどれだけ期待通りに、
もしくは期待以上に遂行できるかということではないかと。

先日、国分寺駅北口にある鉄鍋餃子の店「虎萬元」に初めてお昼ゴハンを食べに行きました。
私は餃子が大好きなので「虎萬元」はずっと気になっていた店ではあったのですが
なんとなく、行きそびれていたんですよね。

店に入り、その後に控えている仕事のことなどおかまい無しに餃子の定食を注文。
ニンニクの匂いとか、実はあまり気にしたことがありません。
その店独特のものが食べたかったので「大餃子」の定食にしました。
鉄鍋餃子って手もあったんだけどなんか脂っこそうだし。
わたし胃弱だし。

大餃子っていっても、まあ普通の餃子の倍くらいの大きさであろうと、
大餃子6個ならせいぜい普通の餃子12個分程度の量であろうと、
その時は高をくくっていたのですが。

焼き時間に10分近く待たされた時点で気がつくべきでした。

「大餃子定食です。」と目の前に置かれた皿の上には
ゴロンと横たわる6個の・・・なんだろう?

・・・なんて言っていいかわかんないんですけど

イヤこの餃子を形容する言葉をいろいろ考えてはみたんですけど

とりあえず、「ゴロン」って感じなんだよね・・・。

よくでっかくてあまり機敏に動かないようなものが横たわっている様を形容する時に、
「ゴロン」って言葉を使うじゃないですか。

お腹いっぱいになって「あー眠い」とか言って「ゴロン」と横になるとか
もしくは解体前の冷凍マグロが「ゴロン」と存在する様とか
まあ、そんな感じで。

大きさ的には普通の餃子の3倍くらいじゃないかと思うのですが

そこには決して普通の餃子に見られるような
軽やかに焼き上がった皮の香ばしさとかは無く・・・

なんだか怠惰ささえも感じさせる「ゴロン」なんだよね・・。

食べてみたら別に普通に美味しいんですけど、
たしかに小麦粉の皮でみじん切りにした肉と野菜を包むという点において言えば
これは餃子に間違いないのですが

普通にいつも餃子を食べる時のように
まずは醤油と多めの酢に浸してその大餃子を食べてみても

なぜか餃子を食べている、という感じが全くしない。

大餃子に対して小さすぎやしないだろうかと思われる醤油小皿の上で
箸で二つに割られた大餃子の皮がぐんぐん酢醤油を吸い込んでゆく。

味は餃子なのに餃子を食べている気がしないなんて
いったい私は今まで何をもってして「餃子」を食べている感を感じてきたのだろうか?

たかがランチでそんな面倒なこと考えさせやがって・・・

と悪態付きながらもとりあえず大餃子6個を完食しました。
ゴハンとスープは食べきれず残しましたが。

しかしこれだけ餃子で満腹になったというのに
大好きな「餃子」を食べたという満足感が全く無いとはこれいかに・・・。

そしてその数日後に今度は吉祥寺の「一圓」でも同じような目にあったのですが
おそらくそれは私自身の「餃子」と言う言葉を聞いた時に感じる無邪気なわくわく感のせいなんでしょう。
食に対する喜びというのは、いくつになっても純粋なもんです。

「餃子」って言われるとなんでもいいから食べたくなっちゃうんですよ。
一圓の餃子はでかいって知ってたのに、ジャンボ餃子を頼んじゃったんです。
食べた後にやっぱり普通の餃子にしとけば良かったって思ったんですけど。

餃子を食べた満足感を残さない餃子は餃子としてのプライドを放棄していると思わざるをえませんね。

餃子は餃子としての役目を果たしてこそ餃子なのです。

なんでもでかい方がいいなんて、だから男の妄信なんだってば。