2011/05/07

ぬるい水と死のにおい



「辺見 庸」の小説 大好きなんです
「辺見 庸」の、エロさがすき。


どっちかってゆうとルポライターとしての著書よりも
ちょっとモノガタリよりの方が好きです。


「赤い橋の下のぬるい水」とか
「ゆで卵」の短編集とか。


この人の文章って別にセックスシーンを描いてるわけじゃないのに
なんかエロティックですよね。


昨日、小説ではないのですが「辺見庸コレクション/美と破局」の中の
チェット・ベイカーについてのエッセイを読みました。


チェット・ベイカーって、あのジャズトランペット奏者、兼ボーカリストの
チェット・ベイカーです。


私、昔 初めてチェットベイカーの「マイ・ファニー・バレンタイン」を聞いた時に、
あの男か女かもわからない、なんてゆーか 井戸の底を覗くような
冷たい深さを感じる声に、なんかぞっとしたんですよ。


だから、辺見 庸がチェット・ベイカーのことをどういう風に描いてるのか、
ちょっと楽しみだったんですが


かつて、「うたう屍体」とまで酷評されたことのある麻薬中毒者、チェットベイカー。


彼が生涯で費やした麻薬代金は、ざっと六百万ドル。
辺見 庸いわく この金額、
「比較対象の妥当性と正確さを問わずにイメージだけでいうとすれば
イラクで人を殺しまくった巡航ミサイルBGM109十基分、プラス劣化ウラン弾数十トンに匹敵する金額」なのだとか。


そんなチェットのことを 辺見 庸はこんな風に書いてました。


『彼のすごみは、恩寵のゆえではなくして、神をもあきれさせ、ふるえあがらせた底なしの 無反省とほぼ完璧な無為をみなもととしていることにあるのだ。』


『闇の底からわきあがってくるその声は、
 うたがいもなく腐りきった肉体の芯をみなもととし、
 ただれた臓器をふるわせ、無為の心と重奏してうねり、
 錆びた血管をへめぐり、安物の入れ歯のすき間をぬけて、よろよろと私の耳にたっした。
 
 ここに疲れや苦汁があっても、感傷はない。更正の意欲も生きなおす気もない。
 ・・・教訓などない。
 
 学ぶべき点がもしもあるとしたら、徹底した落伍者の眼の色と声質は、
 たいがいほとんど は下卑ているけれど、
 しかし、成功者や更正者たちのそれにくらべて、はるかに深い奥ゆきがあり、
 ときに神性さえおびるということなのだ。』




私、チェット・ベイカーの演奏ってそんなにたくさん知らないんですが
なんか妙に納得。


そして、私が なんで辺見 庸の文章をエロティックに感じるのか、
少しわかった気がしました。


エロさって、突き詰めて行くと、「死」に向かって行く気がするんですよ。


生殖のための欲求なのに不思議なんですが、
男と女が行き着くとこまで行こうとすると、自然な到達点として
そこには望まれるべくして「死」がある気がするんですね。


荒木経惟だったかな、
「イクっていうのはさ、あの世にイクってことなんだよ。」
とかなんとか昔 言ってましたけど、なんかそれもわからなくもない。


辺見 庸は、もともとジャーナリストとしての本来の姿があるせいか、
常に「死」というものをみつめている感じがするんです。


辺見 庸の書く、なんてことはない男と女の話や
食べ物の話なんかを読んでいても


言葉のひとつひとつに「死」が滲む、なまなましい臭いがあって


なま臭く生きる肉体の、その表面にいつも薄い「死」の膜がひかれている、
そんな感じ。


「死」の海の水面にたゆたう生身のいのちがそこにあるとしたら


その いのちは間違いなく「ゆで卵」の女の身体の一部みたいに


「生」の匂いをエロティックにぷんぷんまき散らしてるんでしょう。


特に意味はないんですが、
今回読んだ「美と破局」の中から、一部抜粋。


『水の涸れた井戸のある角を右に、もとは白だったのか黒だったのか、色褪せたフラフープ の転がる角を左にまがり、へめぐり、手探りしても、でるにでられず、戻るに戻れず、
私はただ自身の原籍や現住所の記憶をぽろぽろぽろぽろと宵の路地裏に落として歩くばかりなのである。』